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半田高等学校
在校生論文顕彰

第1回(平成2年度)

第1回(平成2年度)在校生論文顕彰は1月に締め切り、審査を経て、最優秀賞1編、優秀賞2編、佳作5編が選ばれました。結果発表と表彰は2月に行われました。


基本テーマ
『二十一世紀と私』
応募総数
92編
入賞作品
 題名受賞者
最優秀賞 二十一世紀と私
― 地球に起こる飢餓・私の夢
3年
本多 亮
優秀賞 二十一世紀と私 3年
森田 真吾
優秀賞 火事・紅白歌合戦・中東情勢
― 二十一世紀への極私的展望
2年
小林 塑青
佳作 二十一世紀と私
― 私のめざす人物像
3年
高林 朋恵
佳作 私は医師になりたい 2年
中川 直美
佳作 将来にむけて 2年
大浦 弘子
佳作 羽豆岬からの風景 1年
赤澤 貴洋
佳作 二十一世紀と私 1年
中村 英代

最優秀作品

二十一世紀と私
― 地球に起こる飢餓・私の夢
本多 亮

「衣食足りて礼節をしる」という諺はよく知られている。着るもの、食べるものに十分事足りるようになって、人は礼節を尊ぶようになると言ったものである。果たしてそうか。我々にあてはまるか。日本人が科学と生産技術の飛躍的成長で豊かになって得たものは、礼節というより、まさに奢りである。

人類は未知なるものの解明には激しく挑む。超粒子単位の新物質の発見、バイオテクノロジー、あるいは広大な宇宙へと探求心はとどまるところを知らない。しかし、この地球上に、僕たちが現に生活している地球上に起こっている複雑で深刻な問題への取り組みこそ、もっともっと地球全体で解決に努めるべきことではなかろうか。

地球環境問題について近年、多く取り上げられ、事の重大さと対処の緊急さがうかがわれる。実際、フロンガスを今、規制して効果が現れるのは十五年後だというし、温室効果に到っては半世紀後だというらしい。オゾン層の破壊や温暖化現象の他にも、酸性雨の問題、それに森林破壊の問題がある。

とかく環境問題について考えるのに、環境が自分たちのためだけの問題になっているのに気付いてハッとすることがある。何年後に炭酸ガス濃度が何倍になり気温が何度上がる。僕たちの人体への影響、森林の減少により予想される結果など、どれも直接我々にかかわるものばかりである。自らの生存をまず危ぶむのは当然だと思うが、現在、その破壊のために苦しんでいる人々がいることを忘れがちではないか。自然破壊で一番最初に打撃を受けるのは、発展途上国なのである。

一つに、飢餓の問題がある。今、飢えている人は世界中で十億七千万人もいるという。世界人口の五分の一といったところか。飢餓は、干ばつによる飢饉などの天災で起こると思われがちだが、実際違っていると本で知った。現地の貧しい人々は放牧や農耕のために土地を開墾し、森を焼く。その土地も連続的な使用搾取で数年で使えなくなり次の森に火をつける。大量の森林を切り倒すことによって裸になった表土は雨に流され、熱帯のラテライトがむき出しになり、やがて固まる。その後には植物は生えず砂漠同然となる。また雨水を貯える森林がなくなるため雨も降らなくなる。この点から見ても、飢餓とは人の手で計らずして起こされる人災である。貧困-環境破壊-貧困という悪循環のガチガチに何重にも結びついたものが飢えだとすれば、環境破壊と飢餓は切り離せない問題である。そのことに気付いた。

僕は、高校三年生として現在、将来進むべき道の岐路に立たされている。将来について自分について悩みや不安は絶えない。「自分はこれから、どこにどう立ち、いかなる目標と、社会に対していかなる役割をもって生きていけばよいのか。それよりまず、自分は一体どういう人間なのか-」その答はなかなか見つけられない。裕福な国、日本に生をうけ、いつのまにかその幸福を幸福だとも思わず、生きるということに慢心していた自分。そんな自分に気付き、恥ずかしいと思い出したのも、この世の中には僕なんかの想像もつかない不幸な境遇の人がいるということを知ってからである。「死ぬ気でやればやれないことはない」と人は言う。だけど、死ぬことが何よりの問題で、それを克服しない限り何もできない人もいる。その大きな違いは何に起因するのか。雑誌のグラビアから、お腹が異常に出た、目がギョロギョロした手足は棒のように細い子ども達が僕を見つめる。ただ理由の分からぬ恐ろしさと無力感で恐縮するばかりの僕。

自分のためだけに一生あくせく生きる生き方は、なんてちっぽけなものだろう。他人を踏みつけにして上ばかり見ている生き方は、なんて味けないものだろう。その点において僕は心から尊敬する人がいる。アルベルト・シュバイツァー、その人だ。彼は決意した。

『自分は三十歳になるまでは学問と芸術のために生きるべく許された、と考えよう。そうしてそれから後は直接人間への奉仕に一身を捧げよう』

神学家・音楽家として築きあげた地位も全て棄てて医者となりアフリカに入った。

『世界における人道上の問題には特定の国家や宗教での所属者としての人間でなく、人間としての人間が手をつけなくてはならない』
と病と闘った。

自分を振り返る。確かに僕も苦しむ人々を救いたい気持ちは多くある。しかし、自分を犠牲にしてすべてを捧げ出す勇気はあるか。もっとも犠牲と思うところから間違っているのだろうが、本心からできるか。どこかで認められたいと望み、見返りを期待する気持ちは心の奥に根を張っている。

日本を含む先進国が飢餓の大きな鍵を握っていることは明らかである。飢えの起こる原因に自然破壊と救援の不徹底があるとすると、僕はその根本の心境に迫ってみようと思った。

僕は二年生のとき生徒会執行部の仕事を務めた。行事を遂行する一方、校内での盗難や空き缶の放置などに見られるような、いわゆる低俗化との闘いで、生徒全体としての質の向上に努めることが課題であった。仕事を進めるうちに、半高生の間に大きな何か欠如があることに気がついた。それは半田高校生として「連帯感」の薄さと、「当事者意識」の弱さである。言い換えれば、一人一人が全体を高めようとする志の小ささと、自分たちが半高生徒会を形成しているのだという自覚度の低さである。集団から一歩身を引いて、遠めにみながら無関心を装い、冷たい壁を作って安心している。しかし、集団の中において弱いものを助け、お互いに足りないところを補いながら磨き合うところに、その集団としてしか得られない相乗作用が生まれるのだと思うのである。地球における環境問題、飢餓の問題にしても同じことが言えるだろう。自分を勝手に切り離して、「私は関係ありません」と言うのではなく、もっと広い視野に立って、汚れる地球や飢える人々のことを全体で考えて行くべきではなかろうか。校長先生が、かつて朝の会の表彰伝達の場でよく言われた、「共通の財産として」というのは地球自体にも当てはまると思う。同じ地球に同じ時代に生きることの連帯感と地球を汚して飢餓が起こることに大なり小なり荷担している当事者意識をもって当たらなければ、この大きな問題の完全に解決する見通しは暗いだろうし、僕達の生活もある程度以上の発展は望めないし、衰退の可能性も大きいだろう。

僕は、法律を勉強して将来はそれを元にして飢餓救済の事業に参加できれば、と思っていた。しかし今回、改めて自分の理想と希望、世界の人々の貧苦と飢餓を見つめ直してみてその思いはますます強くなった。法律にもいろいろある。単に人を裁く無味乾燥な法ではなく、世界の人々を苦悩から救えるような人血の通った法を学びたい。飢餓の内部の複雑さ、具体的な解決策、援助のあり方など残念だがまだ僕はほとんど知らない。だからこそこれからの大学生活を将来につながるものにするために知識の吸収、広い視野を身につけることが僕の当面の目標である。

そしてシュバイツァーが言ったような、「人間として、真の人間性をもって、人間に働きかけること」のための飢餓への取り組みが僕に与えられた役割であり、生きる目標でもあるように思えるのである。「衣食足りて、困っている人々を思う」それが今の世の中に必要なのだ。

漠然としていた夢が今、少し確かなものになりつつある。二十一世紀、飢餓に苦しむ人々の力になること、これが僕の夢なのである。

(「シュバイツァー著作集」1巻・2巻より引用)