第2回(平成3年度)
第2回(平成3年度)在校生論文顕彰は1月に締め切り、審査を経て、最優秀賞1編、優秀賞2編、佳作5編、特別賞5編が選ばれました。結果発表と表彰は2月に行われました。
- 基本テーマ
- 『二十一世紀と私』
- 応募総数
- 184編
- 入賞作品
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題名 受賞者 最優秀賞 無からの再生
― 「未来に向かって生きる」とは? ―3年
小林 塑青優秀賞 「環境保護論」への逆襲 3年
榊原 章人優秀賞 将来を考える 2年
斉藤 晶英佳作 二十一世紀と私 3年
小出 範幸佳作 核融合の実現へ 3年
前田 知志佳作 二十一世紀を担う私たち 2年
榊原 珠記佳作 二十一世紀と法
― 死刑制度における私的展開 ―2年
幸田 典久佳作 未知なる二十一世紀へ 1年
岩間 晶子特別賞 二十一世紀と私
― 笑顔と度胸の友達づくり ―3年
片桐 裕子特別賞 人とキツネと知多の自然 2年
鰐部 美千代特別賞 金の卵 2年
松井 三恵特別賞 二十一世紀の社会福祉と看護婦 1年
井上 奈穂特別賞 謎の本州縦断鉄道を求めて
― 二十一世紀の鉄道を考える ―1年
平松 秀郷
最優秀作品
― 「未来に向かって生きる」とは? ―
もしもし、お電話かわりました、僕ですけれども、ああ、君か。どうしたんだい?なになに、論文顕彰に応募する、それでテーマを何にするか悩んでいるんだって?ふーん、そうか。でも、何も考えつかないってことはないだろう?自分が問題だと思っていることを何か採り上げればいいと思うよ。いっぱいある?それなら結構じゃないか、何か言ってみてくれないか?なになに、環境問題、国際貢献、高齢化社会――なるほどねえ。いいじゃない、そこから選んだら?でも、どの題にしても、結論は見えてしまっていて、他の誰かが書くような文しか書けないって?そうか・・・・うん、でも、そのことに気づいた君はえらいと思うよ。社会問題を採り上げて文章を書くときには、常にそういった危険に注意しなければならないんだ。その危険を避けるため、小論文の通信添削だと、「自分の視点を持て」なんていうことを言う場合があるそうだ。でも、大げさなことを言うようだけれども、僕は自分の視点を持つためには自分の人生に対する姿勢を考えていかなければならないと思うし、その思考の過程の中で認識していくべきことがいくつかあるような気がするんだ。それはどういうことかって?じゃ、自分なりの考えを君に聞いてもらうことにするよ。このことを話すことによって、未来への僕の想いも君ならわかってくれるかもしれないからね。少し長くなるよ、いいかい?
社会問題を採り上げようとした君にとっては少しイヤミに聞こえるかもしれないが、僕は「自己の無力さ」をまず最初に自覚すべきだと思っている。君や僕がいくら文章を書いても、あるいはどれだけ行動を起こしたとしても、問題には何の影響もない。そんなことはわかってるって?だけど、君は心のどこかで、「一人一人は弱くても、多くの声が集まれば大きな力となりうると思う・・・・」というような紋切り型の文脈を論文に使おうと考えていたのではないか?だからこそ、結論が見え、行きづまってしまったのだと思うよ。ゼロはいくつ足してもゼロなんだ。集団の力を期待している限り、「自己の無力さ」を完全に自覚しているとは言えないと思う。ここで悲しんだり、憤慨したりしてはいけないよ。全てはここから始まるのだから。そしてあらかじめ断っておくが、僕は「無意味」とは言っていない、あくまでも「無力」と言っているのだ、そこを誤解しないでくれ。ところで君は『しゃぼん玉』(※注①)というドラマの最終回を見たかい?見ていなかった?そうか、じゃ説明しよう。ポーというあだ名の医師がいて、彼は東京西新宿の再開発に伴う猛烈な地上げに必死で抵抗していたんだ。その再開発は大物政治家が黒幕となり、証券会社や暴力団までがからんでいるという、すさまじいものだった。一介の町医者ポーがかなう相手ではなかったんだ。抵抗の末、彼は黒幕の政治家の街頭演説会に押しかけ、次の会場に移動しようとするその政治家の車の前に立ちはだかり、拝金主義、物質主義の日本を声高に批判した。しかも、群衆とテレビカメラの前で。その場にいた群衆たちはどう反応したかって?君ならどうあってほしい?群衆がポーに共鳴し、再開発にまつわる地上げや暴力団と政治家との癒着などのスキャンダルが暴露されて、政治家が倒れてほしいって?残念ながら、原作者はそのようなドラマチックな絵空事でラストシーンをしめくくらなかった。結局ポーは群衆にののしられ、「偽善者は帰れ!」というシュプレヒコールまで受けることになってしまったんだ。確かに、ハッピーエンドではない。しかし、僕は感動した。この結末に欺瞞はない。これが個人だ、これが集団だ、これが「無力」だ!違うかい?
さて、僕はさらにつきつめて、「無力」という言葉に含まれている「無」ということについて君に話したいと思う。「無」は全ての事柄において大きな力を持っている。僕は、最初に「自己の無力さ」を自覚する必要がある、と言ったが、そのことからもう一歩先に進んで、「無」の恐ろしさを認識すべきだ、ということを付け加えたい。話が抽象的になってきたね、じゃ二つ例をあげよう。君は少し前にあった盗難事件のことを覚えているか?朝礼のとき、教室に置いてあったカバンの中から金が盗まれていた、あの事件だ。あのことに関して、「財布を教室に置いておくのがいけない。」という意見があった。つまり、そこに財布が「有」ること、これが原因だと。僕はあえてそう考えない。犯人が、その他人のものであるところの財布および金を持ってい「無」かったこと、この「無」が犯人を誘惑したのだ、と僕は解釈する。僕たちの学校で本当に金に困っている生徒はいないはずだ、小づかいだって少しは皆持っているだろう。にもかかわらず盗難が起きる、これは他人の金は永久に自分の金では「無」いというこの当たり前の「無」をある特定の人が認識していない、あるいは認識を避けていることが真の原因だと思う。「有」ではなく「無」が盗みを働かせるという恐怖を、君にわかってもらえただろうか?では、もう一つの例を出そう。君はコンロの火に手を突っ込めるかい?何をバカな、ヤケドさせる気かって?いやすまん、実際にやってみろということではないんだ。君の言う通り、君の手は焼けてしまうだろう。でも僕は、火が君の手を焼く、とはあえて言わない。君の手が火の性質を持ってい「無」いこと、この「無」が作用することによって君の手は焼けてしまうのだ。もし君の手が火だったら、火を火で焼くことは絶対にできないからね。
今、僕は二つの「無」を君に聞いてもらった。盗みに関しての「無」は認識することによって君も僕も乗り越えられる、火に関しての「無」は認識しても乗り越えられない。では、「無力」の「無」についてはどうだろうか?「無力」を自覚したとき、その先に何が見える?どうやって次のステップを踏み出せばいい?これらの問題を君と一緒に考えてみたい。また、これらを克服することによって、僕たちの未来である二十一世紀、およびその中で生きることへの僕たちの姿勢も整えることができると僕は確信しているんだ。だから、もう少し聞いてくれないか?
とにかく、これらの問題は大きい。どんな方面から考えてゆけばよいのか、君も悩んでいると思う。そこで、僕としては歴史的な視点、および生きることに対する価値観、このようなことから問題をとらえていきたい。「無力を認めて、さあどうする?」というこの古くてかつ新しい問題を考えてゆくとき、一九六0年代の学生運動について知ることは僕たちに様々な示唆を与えてくれると思う。僕の両親は、「団塊の世代」「第一次ベビーブーム世代」と呼ばれる年齢なんだ、君の家もそうじゃなかったかな?僕たちの両親が若かったころ、日本のあちこちで学生たちは闘っていた。何に対してかって?安保(※注②)や反戦(※注③)、いろいろなことがあったそうだけれども、結局みんな一人一人「自分の前に立ちはだかる、姿の見えない巨大な敵」に対して闘っていたんだろうね。それで当時、闘う学生たちの間で流行した言葉の一つに「全否定」というものがあった。この言葉について君に説明しよう。今や死語となりつつある「マルクス主義」、これをそのころは生き生きとした理想の言葉として受け止める者が多勢いたんだ。マルクス主義は小市民(※注④)的な存在を否定する。だから、マルクス主義を思想基盤として闘っていた学生たちは、自分の小市民性を否定しなければならない、と感じた。そこで、「小市民的な自分を『全否定』していきたいと思う!」と宣言することによって、生まれ変わった気分になり、一層マルクス主義に忠実であろうとしたんだ。何て単純で、幼稚なんだろうって?そう考えるかどうかは、君の自由さ。いずれにせよ、裏を返せば彼らはマルクス主義を「全肯定」したわけだ。そして、その思想を旗印として彼らは運動を展開し、思想のためなら全てのことが正当化されると信じて、様々な事件を起こした。その結果、おびただしい血が流され、多くの破壊が行われた。こういった運動の流れから、僕は一つの言葉を連想する。君は「大義名分」という言葉を知っているか?理想のためであれば手段が正当化される、というこの鎌倉時代以来の日本の価値観は、「大東亜共栄圏」という旗印のもとで多くの犠牲を払った太平洋戦争以降も、こんな形で生き残ったんだ。結局、このような日本人に受け入れられやすい価値観に基づいていたせいもあってか、学生運動に共感していた当時の若者たちは、程度の差はあるにせよ、皆理想に燃えていた。しかし、やがて運動の限界を感じて、挫折を体験したとき、彼らは理想に燃えたのと同じくらいの激しさで落胆し、自分の中に閉じこもってしまった者が多かったといわれる。僕の父が見た学生運動の闘士のある者は、そのような挫折の後、金もうけ一筋の人間に変わってしまったそうだ。きっと、彼は「全否定」して生まれ変わったはずの自分の挫折を恥じて、今度は挫折した自分を「全否定」せざるをえなかったんだろうね。言いかえれば、理想に対する「自己の無力さ」に対して、彼は「自分が抱いていた理想と正反対の人間になる」という生き方しか頭に浮かばなかったのだと思う。僕は金もうけが悪だというつもりはない。でも、この人の変貌は、彼らの価値観が生んだ一つの悲劇だと思わないか?
時間は流れ、これからは僕たち「第二次ベビーブーム世代」の時代だ。僕たちは、今君に聞いてもらったような歴史を正しく知ったうえで、新しい価値観を模索してゆく必要があると思う。そうすることによって、右や左に極端に走って行っては、すぐに「虚無」という一つの「無」の谷に転落してしまう傾向にあった過去を繰り返さずにすむのではないだろうか?何?そんな心配はないって?それは君、どうして?――ふ-ん、なるほどねえ、僕たちの世代は昔ほど社会問題に関心がなく、「ファジー」という言葉の流行にも表れているように、何事にもあいまいな態度、我関せずの態度で生きている者が多いから大丈夫だと、君はそう言うわけだね?確かに、君の意見は現状を正しく述べているかもしれない。しかし、僕は将来のことを考えると、状況をそう楽観することはできないんだ。物事に対してあいまいな態度、無関心な態度をとっている人は、「判断」する能力を停止している状態にあるのではないだろうか?そういう状態にある人間は、外部からの大きな力によって流されてしまいがちだと思う。世紀末を迎え、世界が大きく変わりつつある今、僕の目に映るのは過去の価値観の復活ばかりだ。世界各地の民族主義に基づく紛争がテレビで報道され、電車の窓からは新興宗教の支部が見える、そんな状況のもとで、「ファジー」な人々がいつ右や左に一斉に動かされてしまうか、君は恐ろしくないか?
現状を楽観する君の心のどこかには、「判断」を恐れている部分があると思う。「判断する」ということが、過去と同様偏りを生み、自分が傷つく結果につながるのではないかと。そもそも「判断」とはいったいどういうことだろうか?君が考えている「判断」とは、事柄が二つあって、右か左どちらかを選び、選んだ事柄には完全に従う、そういったものではないか?僕はそう考えない。真の「判断」とは、一つの事柄についても、あらゆる角度から見たうえで、どこを肯定し、どこを否定するか明確にすることだと思う。そして、さらにつきつめて言えば、そのような「判断」は個人によって行われなければならない。現実においては個々の「判断」を総合したものが社会を動かしていくかもしれない、しかしその中にあっても、「判断する」という行為それ自体は個人の責任にゆだねられるべきだ。「判断する」ことを通して、僕たち一人一人の精神は自分の内に閉じこもることなく、外部の世界をにらみ続ける。そのことによって、「自己の無力さ」の先にある「精神の自由さ」を見ることができると思うんだ。この「精神の自由さ」、これは見ることができるだけで、決して手の届かないものかもしれない。しかし、僕たちが自己の精神的成長の中で「判断力」を少しでも多く身につけてゆけば、確実に僕たちは一歩一歩「精神の自由さ」に近づくことができるはずだ。そうやって自己の「判断力」を増大させていくために、僕たちは「無力」の「無」以外にもありとあらゆる「無」を乗り越えようと努力しなければならない。その「無」とは、「無知」であり、「無関心」であり、「虚無」であり、他にもたくさんある。そのうえ、それらを乗り越え、あるいは乗り越えようとするたびにまた新たな「無」が僕たちの前に立ちはだかるだろう。でも、その繰り返しの中で、僕たちは何度も「今まで自分が気づかなかった新しい自己」を自分の内に見い出すはずだ。つまり僕たちは、両親から肉体を授かって生まれてきたときと同様に、今度は自分の力で新しい自己を自分の内に精神的な形で再び生み落とす。このことを僕は「再生」と呼びたい。「無」からの「再生」――生きている限り何度も繰り返されるこの儀式のたびに、君も僕も苦しみ、悲しまなければならないかもしれない。しかし、立ち止まっていては絶対に得られない喜びや楽しみも同じくらい体験できるだろう。結局、今僕が一気に君に話した、人が「再生」に至るまでの全ての過程、このことは「未来に向かって生きる」ということの一つのあり方を示している、と僕は考えているんだ。君はどう思う?
さて、僕の考えはこれで終わりだ。ああ、もうずいぶん夜遅くなってしまったね、また機会があったら君の考えも聞かせてくれ、僕の話が参考になったかどうかわからないけど、論文がんばって書いてくれよ、期待しているからね。じゃ、切るよ、おやすみ!
注①『シャボン玉』:一九九一年の秋から冬にかけてTBS系で放映されたテレビドラマ。
注②『安保』:日米新安全保障条約(一九六〇年調印)の締結をめぐり展開された反対運動。当時から現在に至るまで様々な論議があるが、この条約が日米間の軍事同盟の性格を持つことは事実である。
注③『反戦』:ヴェトナム戦争(一九六五年~一九七五年)に対する反戦運動。当時、この運動は世界的な規模で広がりを見せ、日本でも一九六八年に学生の反戦デモが暴動化するという事態に至った。
注④『小市民』:小市民は「私的幸福を追求する生き方をとるものとして、人民全体の幸福を理想とするマルクス主義の観点からは否定された。なお、小市民のこういった生き方は、その後の若者たちの間で流行した「ミーイズム」という対社会姿勢にも関連を持つ。