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半田高等学校
在校生論文顕彰

第3回(平成4年度)

第3回(平成4年度)在校生論文顕彰は1月に締め切り、審査を経て、最優秀賞1編、優秀賞2編、佳作5編、特別賞3編が選ばれました。結果発表と表彰は2月に行われました。


基本テーマ
『夢』
応募総数
219編
入賞作品
 題名受賞者
最優秀賞 夢 (芸術論) 3年
深川 英里
優秀賞 福祉に生きたい 3年
大川 明美
優秀賞 Arcadia
― あぐい米の復権 ―
2年
平松 秀郷
佳作 新世紀へのプレリュード
~夢を追いかける前に~
3年
幸田 典久
佳作 二十一世紀にむけての「夢」
― 教育への憧れより ―
3年
富山 恵
佳作 自分に自信 心に余裕 3年
松村 昌美
佳作 あしたの子どもたちは
― オトナコドモからの提言 ―
2年
堀出 知里
佳作 地球時代を生きるために 1年
竹内 理恵
特別賞 笑 顔 3年
伊藤 学
特別賞 一月に見た夢 2年
竹内 里保香
特別賞 地方の時代を築くために 1年
竹内 裕人

最優秀作品

夢 (芸術論)
深川 英里

私は幼い頃から画を描くことや工作が好きだった。日がな一日、黙々と今では考えられない根気で物を創っていたようだ。少し大きくなると親に連れられて美術館や音楽会に行くようになる。それこそ始めのうちは美術館ではジュースに興味が行き、音楽会では眠りこけていたのが、次第におもしろくなってきて、楽しみにするようになった。そのうち中学生になり、進路を考える時期がきた。その頃自分の娯楽として油絵を描いたり楽器を弾いたりしており、読書に一番打ち込んだのも小学生高学年から中学校にかけてであった。中学生になるとノンフィクションや、多少哲学書などにも目を通すようになる。そんな中で進路や自分の存在など様々なことに悩み、答を出したり、放棄したりしていく。私はどんな進路をとろう?私は美術が好きだ。音楽が好きだ。文学が好きだ。いわゆる芸術に関心がある。しかし一つの分野を究めるよりも、もっと多角的にいろいろな方向から芸術を捉えたい。そんな希望が芽生えてきた。かくて私は高校での進路希望調査用紙に「芸術学」と記したのである。

芸術とは何ですか。と聞かれると実は私も明確には答えられない。そもそも芸術という言葉自体、抽象的であるし、芸術が人間精神の産物である以上、人間の歴史、その営為、と限りなく関連していってしまう。狭義に言えば大学において美術史などを習うのだと言えるが、私自身としては前者の広義な意味での芸術学を念頭においていきたい。要は芸術という分野を通して人類の変遷を、思想を、営みを見つめたいのである。単なるロマンティズムだけでなく、私が人類の一員だということ、綿々と続いてきた歴史が私の中に受け継がれており、そしてさらに未来へと続いていくのだという認識がそうした想いへと駆り立てるのだ。現在という時点から過去を眺め、未来について考察する。また現在という時点に立って今を見つめる。価値観が多様化している時代、現代美術などは系統づけることさえ難しい。国際化が言われ、ナショナリズムが叫ばれたりする中で基本的には国ごとに、あるいは地域ごとに発展してきた芸術はどうなっていくのであろうか。そして定義された分野の領域の変容にも注目したい。メディア=アート、映像美術などは美術と科学の結合と言えよう。既成の分野、概念をとびだして拡張したり、他の分野と結合したりする試みは、現代美術一般にも言えることである。これから先、従来の美術などの概念は次第に変化して行くであろう。

そしてもう一つ重要なのが「表現」である。私自身の創作活動である。人は誰しも「美的快感」というものを経験したことがあるだろう。目に焼き付くような夏の空の青さや燃えるような秋の晩景によって、突然自己忘失と陶酔の中へ投げ込まれる、あの感覚。私は鑑賞者に「美的快感」を与えるような作品(手段、素材は問わない)を創りたいと願う。そしてその種の感覚を人々に与えることが芸術の最大の役割だと私は思っている。漠然とした憧れや、しばらくすると消えてしまうような自然な感受性の引き起こす現象、それらは儚く美しい。「表現」というのは人間精神の産みだすものだから、目的も内容も人によって全く違う。私が表現したい、と思うのはそんな儚い美しさをとどめておきたいという願いによってである。砂漠の中で自分の肢体が徐々に砂粒に変化していく。「美的体験」も非常にこれに似ている。自己忘失の「美的快感」の瞬間に私は原子に還る。無数の粒子になって空気の中へ溶け込んでいく感覚に陥る。私はこうした感覚・イメージをとどめたいのである。そしてとどめるだけでなく深め、変容させたいのだ。芸術とは芸術自体を目的としない。「芸術とはそれ以上の究極真理を表現する手段である」私は感覚を、思想を、ユーモアを、物語を、そして空間を物体を表現したいと思う。しかし表現の主題が自分にとって重要であればあるほど満足感は薄れ、虚像を追っているに過ぎないのではないかという思いが心を蝕むかもしれない。人は、真実など無いのだよ、と言いながら真実を求めたり、万象の真理を探ったりする。表現に携わることも同じではないだろうか。その行為、瞬間を尊びながら、どこかで絶対性、そしてすべての行き着く先を夢見ているのである。

はっきり言って芸術は自己満足だと思う。主観に過ぎないとも思う。こんな不確かなものに果たして学ぶべき価値があるのか不安に思ったことがあるのも事実である。しかし現に多くの人が認める”名作”が存在する以上、美に対する共通の認識領域があることは否めないのだ。そこには主観や自己満足で片付けられないものがある。そしてなにより美に対する欲求がこの不確かな領域に人を引き寄せる。錯覚的な永遠性を匂わせて人を誘い出す。だから私は、時折懐疑的になりながらもこの領域に足を踏み入れ、何かつかめるかもしれないという希望を抱いて分け入っていくのである。

楽に生きるという事は意外に簡単である。思考を停止してしまえばよい。しかし私は俗悪な安心感の上にあきらめと偽りの幸福を構築していくことだけはしたくない。それは逆らいがたい生と死、ちっぽけな人間が泣いてもわめいてもどうにもならない力、運命というものに対する私の意地でもあり自尊心である。何があっても失いたくないと思う。芸術を通して自分自身を、世界を模索し、自分にとっての真理をつかもうとあがきながら生きることが私の夢である。