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半田高等学校
在校生論文顕彰

第4回(平成5年度)

第4回(平成5年度)在校生論文顕彰は1月に締め切り、審査を経て、最優秀賞1編、優秀賞2編、佳作5編、特別賞2編が選ばれました。結果発表と表彰は2月に行われました。


基本テーマ
『知多半島・世界の中の日本』
応募総数
131編
入賞作品
 題名受賞者
最優秀賞 何処吹く風、ここに吹く風 3年
堀出 知里
優秀賞 今、日本を見つめて 3年
中村 奈月
優秀賞 国際的な環境
― 自然と人間について ―
1年
大島 正廣
佳作 私たちの役割 3年
堀崎 千恵子
佳作 米問題そして世界の未来を考える 3年
間瀬 加奈子
佳作 知らないでいること 3年
中内 夢二
佳作 命の国際貢献 2年
関 正博
佳作 マレーシアの森林伐採から見えてきたもの 2年
杉浦 史
特別賞 知多半島の未来
― 新たな知多を築く ―
2年
榊原 陽子
特別賞 日本がすべき国際貢献とは 1年
伊奈 真生子

最優秀作品

何処吹く風、ここに吹く風
堀出 知里

誰かからこんな話を聞いた。太古の人々は、海の方から彼らに恵みをもたらす風が吹いてくるのを首を長くして待っていたのだそうだ。その風が海岸にいろいろな漂流物を打ち上げてくれる。その漂着物は村人みんなの財産として、感謝しつつ分け合ったという話なのであるが、「現代においても時の流れを越え、めぐりめぐってその風が知多半島に吹き寄せてくれるのではないか」と、漫然とただ待っているだけの自分に最近気がついた。

古の風は珍しい海産物や難破船の金銀財宝を彼らにもたらしたが、今の風は私たちに少しずつ世界の匂いというものを運んでくれている。私はただ風に吹かれてなんとなくそれを感じとることしかしない。いつまでもそんな不確かな享受の仕方をしていては、脳裏に築かれつつある国際化社会の骨組みが、基礎の段階でゆがんでいても気づくことなくこの年代を過ごし、大人になってからひずみに苦しむようなことになりかねない。それだけは避けたいものだが、いったいどのように行動していくべきなのだろうか。

このごろは半田の街でも外国人の姿を見かけることが多くなった。彼らに接した時、どんな状況だったか、どんな感情を抱いたか、まず具体的に書き出すことによって問題点を探ってみようと思う。(三人の人に仮に名前をつけさせてもらったが、どの場合も一度きりの出会いで後の付き合いはない)

 

a.Aさん(女)ヨーロッパ系

私が雨の中を合羽を着ずに、ずぶ濡れで自転車を走らせていたところに向こうの方から同じようにずぶ濡れで近づいてきた。Aさんはすれ違うときに速度を落として、にっこり笑って「オー、私たちお揃いネ」と言った。その一言で、雨に対する腹立たしさが消え、その人と同じ状態を共有していたことを、とてもうれしく感じた。

 

b.Bさん(女)中国人

母の前の職場でアルバイトをしていた留学生で、母が一度我が家で夕食を一緒にと誘った。日本語が上手で話題も豊富な人で楽しかったが、祖父がなんとか自分も共通の話題をと必死に考え出した末切り出したのは、戦時中に「満州」で見た干しタケノコの話であった。戦争の話になると饒舌になるというのは祖父の世代にはよくある。その話の中にBさんにとって不愉快に感じられると思われる点があったことは私にもよくわかった。しかしBさんはにこやかに話を聞き、説明をしてくれた。全身から頭の良さと理性を感じさせる人だった。子供心にもかっこいいと思った。

 

c.Cさん(男)イラン人?

道路沿いの土手で三人の男の人が電動草刈り機で雑草を刈り取っていた。近くで見るまでは、日本人が働いていると思っていた。その横を通り過ぎるときはじめてCさんと目が合った。鋭い眼光と見慣れない肌の色を見て・・・・正直に白状するが、怖いと思った。私はすぐに目をそらしてその場を去った。

 

さて、この三つの体験の中で私は、Aさん・Bさんに対して好感を持ち、Cさんに対しては恐怖感を覚えてしまったのだが、その理由を分析してみよう。Aさん・Bさんと、私は何らかの会話を持つことができた。それは彼女らが日本語が話せたことによるものが大きい。Cさんは他の仲間たちと彼らの国の言葉で話していたので、日本語が話せるかどうか分からなかった。また、Aさんとは一対一で出会い、Bさんとは一対四で出会い、Cさんとは三対一で出会った。やはり相手の方が人数が多いと、近寄り難い。

それに、Cさんたちは働いている最中で忙しそうだったこともある・・・・。

考えを進めていくうちに、自分の本心を包み隠す自分の嘘に面と向き合うことになり、嫌な気分になった。そんな理由よりも、もっと的中する理由があるだろうにーー。突き詰めて考えてみると、いろいろな既成概念や、見慣れないものの持つ違和感が、最初からCさんとの距離を作っていたに違いないのだ。それを自分で認めるのは、かなり勇気のいることだった。普段はそんなものはどこにも持っていないかのように感じている、心の深層に潜む差別意識が脳裏で交錯し、色の浅黒い、ひげをはやした黒髪の人をイラン人だと即断し、反射的に「怖い」と感じたあたりから、ぎいっと音を立てて私の頭の中の骨組みがゆがんだような気がしてならない。

自分の片寄った経験からの推測ではあるが、国内では外国人の友人を持つ人々はまだまだ少ないと思われる。ホームスティを受け入れたり、ボランティアで外国人の相談に乗ったりしている一部の人や、自分の企業で外国人労働者を雇っている人たちは、非常に密度の濃い付き合いをしていく中で、より深くお互いを理解し合うことができるだろう。しかし、そうでない人たちは、私と同じ程度の経験しか持っていないと考えられる。この程度の触れ合いから、真の国際化社会が到来したときの状況を予測するのは甚だ困難であり、たとえ予想できたとしても、何も問題点のない、誰とも心が通い合う理想社会が初めから展開するかのように想像し、その非現実性に気がつかなかったり、全く言葉も心も通い合わせることができずどのように付き合ってよいか分からない外国人の集団が街にあふれ、自分たち日本人の生活を圧迫するのではないかという悲観的な見方をしてしまったりするのではないだろうか。

私は国際化社会というものは、ゆるやかに進展していくものだと考えている。そして順調に引き継がれていくものであろう。時が流れ、世代が移り変わっていくことは明らかなことである。言い方を変えると、真の国際化は一世代では達成され得ない、という考えを持っているということだ。

社会に対する適応は、小さい頃からの経験の積み重ねによってなされる。子どもは、外界に生まれ出た時からその世界の環境に慣れてゆく。小さな頃から慣れ親しんだ人や周囲の雰囲気は、心の中になつかしい、居心地のよい風景として定着していく。だから仮に世界が急激に変動し、大人たちが当惑してしまうような状況が訪れても、そのとき生まれた子どもたちにとっては、それが自分の原風景として心に焼きつけられてゆくのだ。ただ、切に願うのは、それが平和な風景であることなのだが。

この考え方においては、私たちは自分が生きているうちに真の国際化社会の中に身を置くことができない。それなら、私たちがなすべきことは何なのだろうか - それは、自分で組み立てたゆがんだ世界観の骨格の上に盛られた誤った認識を次世代に引き継がないということに尽きる。私たちも多かれ少なかれ、前世代の国際間のひずみを受け取っているが、これを私たちのやり方で矯正し、次世代につなぐことは、私たちの義務であると言っても良い。極めて難しいことだと思う。具体的には、今自分の中にある潜在的な偏見をすっかり無くすか、絶対に露見しないように封じ込め、そして新しい偏見の原因となるようなことを大人たちが作り出さないようにすることだ。身近な例を挙げると、教育の場においても様々な問題がありそうだ。最近、日系ブラジル人児童の指導のしかたが問題となっているが、これもやり方次第で、日本の子どもたちにとってもブラジルから来た子どもたちにとっても居心地のよい風景の一部として、互いの心の中に定着させていくことは可能であろう。実際、教員やボランティアの努力で着実な成果をあげている地域もあるのだ。しかし、このことに関しても思慮のない大人の振る舞いが、子どもたちの心に消えない墨を流してしまうことも起こり得るのだ。

もうすぐ伊勢湾に新国際空港が建設される。「国際化の風」は、少し強く吹くかもしれないが、風が運んできたものをただ受け取って喜ぶだけではなく、常に自分の持つ世界観のゆがみに気を配りながら、私たちの段階での知多半島の国際化に参加していけたら、数世代先には本当の国際化 ―― 差別や偏見が消え、国民性、民族性の違いによって起こり得る数々の問題の平和的な解決法が確立され、そして人間ひとりひとりの誇りや民族としての連帯感を望む者にはそれが与えられ、さらにその世界が居心地のよい原風景として次の子どもたちに引き継がれていく世の中 ―― が到来するのではないだろうか。