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半田高等学校
在校生論文顕彰

第11回(平成12年度)

第11回(平成12年度)在校生論文顕彰は1月に締め切り、審査を経て、最優秀賞1編、優秀賞2編、佳作5編が選ばれました。結果発表と表彰は2月に行われました。


基本テーマ
『変わり行く未来に ~理想を求めて』
応募総数
133編
入賞作品
 題名受賞者
最優秀賞 忘れてはならない忘れ物 3年
滝上 伸子
優秀賞 二十一世紀に求められる医療とは 3年
中野 智慧子
優秀賞 私たちにできることから 2年
加古 まどか
佳作 教育に未来を 3年
坂 紀子
佳作 新世紀を思う
― 空港を通して見る未来
3年
益田 朋香
佳作 情報化社会における“コミュニケーション”論 2年
中道 玲瑛
佳作 魚眼レンズで未来を見る 1年
久田 剛輝
佳作 二十一世紀
― 自分にできること ―
1年
小坂田 智子

最優秀作品

忘れてはならない忘れ物
滝上 伸子

平成十二年十一月三十日。

この日、二十世紀最後の死刑が三人の死刑囚に対して、名古屋・福岡の拘置所で執行された。この論文のために死刑と人の死について考えている時でもあり、このニュースに私は少なからずショックを受けた。

私は昔から死刑には反対だ。それは一つには命の大きさを考えるからであり、また一つには主観的な自分を意識するからである。この言葉の意味を含め、ここに私の考える死刑制度と生についての考察をいくつか挙げてみよう。これを読んで、あなたが何かを思ってくれたら嬉しい。

 

一.死刑の性質
まずは死刑という制度について少し触れてみたい。そもそも、死刑は集団が形成されてから始められたものだ。つまり死刑は、集団の規則を破ったものに与えられる究極の「お仕置き」であった。文明の発達とともに政治色を帯びたりもしたが、死刑の原点はここにあるのだと私は思う。

古代の王たちが死刑を科したのは、エゴの表れでもあった。死刑は人間の主観的な考えによるもの、つまり、その時代に生きている「自分」以外の命のことを考えなかった結果作られたものだと私は考える。現在の死刑は自分の犯した罪を償う最大限の形として存在しているわけだが、やはりこれも主観的な自己の産物なのではないか。

 

二.死刑後進国・日本

日本は、死刑「後進」国である。死刑のやり方ではなく、死刑制度を存置し続けているそのこと自体が後進性の理由である。意外に思うかもしれないが、先進国の中で死刑を存置し続けているのは今や日本とアメリカだけだ。ヨーロッパ諸国内では、死刑を廃止していない国に勧告さえしているという。また、アメリカでも十二の州ですでに廃止されている。一部廃止、事実上廃止という国も合わせれば、世界中でその数は百もの国や地域に上るという。日本だけが人の死を軽んじている訳ではあるまい。なぜここまで来て、日本は死刑を廃止しないのだろうか。

その理由を一つだけ挙げるとすれば、この国の死刑が被害者感情によって成り立っているからだろう。日本は被害者の感情を重視しすぎるあまり、死刑囚の人間性やその生の尊厳をおざなりにしているのだと思う。世界的に廃止の方向にある死刑を存続させるのは、「和」を大切にする日本人の国民性なのだろう。私は決して被害者感情を無視せよというのではない。しかし、死刑が行われればそれで被害者は満足するのだろうか。被害者の家族が執行後も苦しみ、傷付いている例はいくらでもあるという。被害者感情を考えて死刑を続行するのなら、まずはそのカウンセリングから始めるのが妥当と言うべきだろう。

外国での死刑廃止の例を挙げてみよう。イギリスでは一九六九年に死刑を廃止したが、そのうち死刑存置論者は八五%を占めていたという。フランス、カナダでも同様だ。この事実の言わんとするところ、それは、世論尊重は逃げでしかないということだ。死刑の代わりに終身刑を置いた諸外国で死刑復活を唱える人は、少ない。世論を重視しすぎるあまり、日本はそれ以上に大切なものを忘れているのだと思う。日本は、いつまで死刑を続けるのだろう。死刑廃止が一般となりつつある世界を尻目に、死刑はやはり存在しつづけるのだろうか。

 

三.常識的思想

現在の日本では死刑が「常識」であるが、それではもし死刑の無いことが常識だったらどうだろう。日本人はもともと温和な性格であり、それと仏教の影響から一時死刑を廃止していた時期がある。奈良時代、聖武天皇の時世のことだ。「死んだものは再び生き返らない」という哲学の下、死刑は減刑するのがその当時の「常識」であったという。

ヨーロッパでは、古くはトマス・モアが『ユートピア』の中で「許すべからざるもの」として死刑に反対している。一八世紀の中ごろにベッカーリアという人物が大々的に廃止を唱えると、多くの死刑廃止思想が生まれるようになった。最近の動きとしては、一九八九年に国連総会で「死刑廃止条約」なるものが可決されている(日本は未批准)。

「常識」は、その時代に生きている人が作り上げるものである。私たちは死刑制度を持つことを常識としているが、これは他から見れば野蛮な風習でしかないと私は思う。相変わらず死刑を続ける日本は国際世論の非難を受けているということも事実なのだ。今でなくて、いつこの常識を見直すというのだろう。この制度を持ちつづけると、いつか生を軽視しすぎる時代が来るような気がしてならない。

 

四.大きい「いのち」

私がもし被害者遺族の立場にいたとして、果たしてその時まで「死刑廃止を」と強く言えるのかは分からない。ただ、死刑を望むとは言えないと思う。むしろ死刑にしてほしくないと思う。生きていてこそ償える罪であり、生きていてこそ感じられる辛さなのである。

私は死刑には反対だが、決して死刑囚を擁護するわけではない。犯した罪は重いものだし、それなりの償いはしないといけないものだと思う。しかし、それを償う手段が死であって良いものか。人間の命は、法律で裁けてしまうほど小さいのだろうか、そうではないと思う。法律が作られたのは集団をまとめるためであって、決して人の命を奪うためではあるまい。極悪な罪を犯した人は一生をかけて罪を償うべきで、間違っても死を与えられるべきではない。

日本では、死刑に次ぐ刑罰は無期懲役である。誤解しているかもしれないが、無期懲役は終身刑とは違って数十年後には社会に復帰できる可能性を持つ。たとえ死刑が終身刑に変わったとしても、日本人は死刑を要求するのだろうか。

 

五.「精神」

昔から、生と死は際限のないテーマだった。ユゴーは死ぬ間際の人にこう言わせている。「死ぬことは何でもない。生きていないことが、恐ろしい。」

古代エジプトのファラオは自らの死のためにピラミッドを作り、イエス=キリストは十字架を背負って死刑になった。宗教の歴史は迫害の歴史でもあり、また国家の興亡は同時に多数の人民の死をも意味していた。歴史を考える際に、例えば戦争で兵や民衆がどんな気持ちで死を迎えたのかは誰も考えない。史実を客観的に扱うことができるだけである。あなたは考えたことがあるだろうか、この歴史を背負って生きた人たちが、それぞれの「精神」を持って生きていたということを。

小さい頃、夜寝る時に障子に映る影を見ながら、いろいろなことを考えることが好きだった。その障子を開けるとそこには道路でなくて、何か違うものがあるような気がしていた。私が初めて自分の存在について疑問を持ったのもこういった夜だった。私がここにいるのはなぜなのか、もし私が死んだら、それと共に私の「精神」も消えるのだろうか。私だけではない。死によってその人がこの世に受けたたった一つの精神は永遠に消えてしまうのだろうか。

死を私が怖いと思うのは、それが自分の存在のなくなることだからだ。私の知っている全ての人はどの時代に生まれる可能性も持っていたのに、偶然今、この世に私の傍で生きている。その素晴らしい偶然を、死はいとも簡単に奪ってしまう。かつ、私は前世も存在していないと思う。存在しているとしても、私はそのことを覚えていない。つまり、私が生まれ変わって違う生き物になったとしても――それがたとえ人間であっても、今の私のことは覚えていないはずで、それは「私」とは言えないのだ。

私が死刑に反対するようになったのは、こういうことを考えたからだ。奪われた命はもう二度とその体には戻らない。命だけでなく偶然誰かの「知り合い」として生まれた精神そのものも、死によって消えてしまうのだ。

 

六.大きな忘れ物

人は、自分の主観的存在に気付かないことが多い。いや、気付いてもなお主観的存在であり続けるのが人間であり、それはそれで素晴らしいと思う。なぜなら一度きりの人生は結局自分のための人生なのだから。何かに貢献している間も、基本的な部分は自己中心的なのが人間である。他人に対して心を痛めたり共に喜んだりするのも、考え方の基本単位は自分自身だ。良心でさえ、突き詰めて考えれば主観的な思いやりなのだと思う。良心を持った私たちが死刑に反対しないのはなぜか。他人を思いやれる私たちが、一方では悲惨な事件に憤慨し、また一方で一つの命が消え去るのに手をたたいて喜ぶのは、なぜか。思うにそれは、その人の死を主観的に捉えられるかそうでないか、ただそれだけの違いなのだ。

重ねて言うが、人には他人の精神まで奪う権利はない。もちろん犯罪を犯した人にもその権利はなかった、しかしそれと死刑とは別問題だ。主観的な自分を捨てられないからといって、それがある人の死を要求するものであってはならない。ある人とはもちろん被害者であり、死刑囚でもある。

明日からまた私たちは進歩する、そして時代も進む。主観的に生きる私たちは、そうだからこそむしろ、他人の生についても考えねばならないのだろう。死刑を廃止しない日本は、一つだけ大きな忘れものをしている。それは、人が皆「この世に生きている」という、忘れてはならない、事実――。

 

[参考文献]
・団藤重光 『死刑廃止論第五版』 有斐閣
・ユゴー  『レ・ミゼラブル』  新潮文庫
・大塚公子 『死刑』       角川書店