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半田高等学校
在校生論文顕彰

第12回(平成13年度)

第12回(平成13年度)在校生論文顕彰は1月に締め切り、審査を経て、最優秀賞1編、優秀賞2編、佳作5編が選ばれました。結果発表と表彰は2月に行われました。


基本テーマ
『考察・ボランティア ~わたしが考える明日』
応募総数
118編
入賞作品
 題名受賞者
最優秀賞 真に生きる力 3年
加古 まどか
優秀賞 野遊びのすすめ 2年
久田 剛輝
優秀賞 今の自分がやるべきこととやれること
-補完し合っていきるということ-
2年
牧野 明香
佳作 ボランティア 3年
蟹江 あゆみ
佳作 人間らしく生きる権利と人間の性 3年
新美 郁
佳作 考察・ボランティア 2年
八木 隆幸
佳作 パレスティナ問題 2年
榊原 和貴
佳作 “言葉”今昔 1年
三谷 暢子

最優秀作品

真に生きる力
加古 まどか

アスファルトのむっとするような照り返しを受けて道路を歩く。横を見やると、車体を不気味に光らせながら車が何台も走っては通りすぎ、騒音がひっきりなしに続いている。このアスファルトに覆われた黒い道は、明らかにあの傍若無人でメタリックな生きもののための道であって、人間のための道にはなっていない。夜、アスファルトと土を手で触ってみると、土はさらりと冷たいのに、アスファルトはまだ熱をもっている。ここ数年で急上昇している熱帯夜とも関連がありそうだ。便利、便利と受け入れてきた文明の利器によって、逆におもしろくない気分を味わわされることはしばしばある。

人間の「脳」が一番嫌うのは、痛みと労働であるという話を聞いたことがあるが、まさに私たちはその二つを排除した世界を創り出そうとしているといえる。あらゆるものを機械化・高速化し、その手段である科学を疑うことなく謳歌してきた。次に挙げるのは、新聞に載っていた今後三十年の技術予測の一部である。
・世界中で通話可能な携帯端末の普及
・自宅で働く人が三十%を超える
・カード大の音声通訳装置が実用化
・ロボットでの手術が大半に
・家事をするロボットが家庭に一台
・遺伝子操作で老化を抑えられるように
・脳内の情報がコンピュータで読みとり可能

これらに一通り目を通して、未来が待ち遠しいと感じる人がどのくらいいるのかは分からない。さらに痛みと労働が排除された世界に、我々は待ったなしで飛びついてしまうかもしれない。が、私は疑問を禁じ得ない。果たしてそこに生身の人間が生きる姿は見い出せるのか。このような事態は、言い換えれば、私たちの世界が、身体の一部にすぎない「脳」に支配されてしまっているといえるのではないか。

駅や電車で多くの人がうつむいてケータイをいじっているのをよく見かける。その空間に居合わせた他の人々とは何の接触もなく、ただめいめいがディスプレイを眺める姿は異様であり、人間同士というよりはむしろ脳と脳の直接的なつながりが浮かび上がる。
また、かつては戸外で元気よく遊んでいた子供がコンピュータゲームに夢中だ。戸外での遊び場の減少も一因であろう。空き地が駐車場に変わり、「よい子はここで遊ばない」という看板が立てられ、「脳の支配」に都合のよいように外界はどんどんつくり変えられてしまった。

人々のファッションスタイルにおいても「脳の支配」が顕著である。現実の世界に適したスタイルではなく、テレビの中のアイドルやキャラクターに近づくように脳によって創り上げられた理想像が目指されている。自然な姿が美しいと認識されることが極端に少なくなったように思う。

無論、脳のはたらきは、痛みと労働の回避だけではなく、脳のはたらきによって「善行」も行われることはまちがいない。だから、私たちの脳には、短絡的、利己的に、自己自身を喜ばせようとする声と、自然界に適応しながら他者を思いやって生きてきた「ひと」としての声との両方があるといえる。ここで私が問題としている「脳の支配」とは、前者の声によるものである。その支配がすすむにつれ、私たちは自然界から離れ、人工の世界に引きこもり、後者の声はますます聞きとりにくくなっている。人間がそもそも自然の中の一員であったことも忘れ、みんな目前の利益に汲々としているのだ。

「脳の支配」は、多くのものを生み出してきた。まず、私たちは、様々な電化製品によって家事労働などに費やす時間を大幅に短縮してきた。もちろんこのことによって余暇が生まれ、様々な文化活動が可能になったのであるから、大いに歓迎される。しかし、これ以上はどうだろうか。例えば、先ほどの技術予測にも見られたように、ロボットによってますます私たちの労働は削減されるであろう。食事の用意、掃除、洗濯、子供の世話、老人の介護等々、何でもこなすロボットに人々は期待をしているようだ。しかし、これが現実となったとき、私たち人間は一体何をやるのか甚だ疑問である。

手の延長としての道具、足の延長としての車、脳の延長としてのコンピュータなど、テクノロジーは、ある意味では、人間の身体能力を拡張している。しかし一方で、自らの手足を使った作業の減少は、人間の身体能力の衰えにつながりはしないか。五百万年の人間の歴史で獲得してきた「ひと」としての身体能力を、私たちは放棄してしまうことになりはしないか。

そもそも労働のない便利な環境で生きていても、それは全身全霊で生きていることにはならない。科学文明は、人間が本当に人間らしく生きることを疎外してしまう面もあるのである。

また、近代になって私たちが便利さのために生活手段として取り入れてきたものは、そのどれもが生態に悪影響を与えているといっても過言ではない。現在の環境問題もやはり先ほどの「脳」の利己的な前者の声によって生み出されたものなのである。

以前、近くに住んでいたカナダ人の夫婦から、「ここは空気が汚ないから帰国します」と言われて愕然としたことがある。電車に乗って横須賀や高横須賀の高架に上がると、海の方におびただしい工場群が見える。大気汚染は必至だ。しかし、いくら私があの工場群を嫌悪してみても、あれらは、まちがいなく私の生活手段となっている文明の一部だ。便利な生活と引き換えに、清浄な空気が失われてしまった。年に数回、工場群の向こうに三重県の山脈がすがすがしく見えることがある。工場群ではなく、松林があって、雄大な山を臨むことができたかつての知多の浜に思いを馳せる。

しばしば、現代とは、「人間中心」の世界であるといった言葉を耳にするが、「人間中心」にすらなっていないように思う。確かに、「脳の支配」に合わせてつくり変えられてはいるが、それは決して生物としての人間が住みやすい環境ではないからだ。ある時父が、手で大きさを示しながら、「昔、裏山でこんな大きなオニヤンマが目の前を横切っていったことがある。」と話してくれたことがある。また、祖母が「最近、カエルの声があまり聞こえなくなったね。」と言う。彼らはどこへ行ってしまったのか。私たち人間も彼らと同様に地球上の生物の一員である限り、彼らにとって住みにくい世界とは、私たちにとってもやはり住みにくい世界なのである。

私たちは「切り身」は知っていても、その「本体」を知らないことがよくある。パック詰めの加工食品は知っていても、その自然界での姿、そしてそれがどのようなルートをたどって私たちの手に入るのかを知らない、といった具合だ。私たちが自然に働きかけ、そしてその恩恵を得るといったループが完全に断絶している。

ある小学校の先生が、「今の小学生は『ネズミ色』と言ってもどういう色か分からないんだよ。本物の『ネズミ』を知らないんだからね。」と話していた。「灰色」と言い換えたところで事態は変わらない。灰も見たことがないからだ。私たちの生活は、確かに自然の上に成り立っているはずなのに、その事実を覆い隠してしまうような世界を築いてきてしまった。しかし、「自然」を共に生きる相手としてではなく、ただ搾取の対象とみなしているこの世界は、地球の有限の資源を考えれば存続不可能である。

「メディアを制する者は二十一世紀を制す」とか、「情報に瞬時に対応できる能力が求められる」とか言った言葉を最近よく聞く。しかし、これらのみを私たちが重視していくことは、まさに人間の脳が勝手に創り出した窮屈な体制の下に甘んじることを意味しているように思われる。IT機器によって私的空間をますます占領させ、身体機能の向上をさしおいてパソコン技術の習得に日々を費やす。これは、本来私たち人間がしなければならなかったことではないはずだ。

現在日本では、自分が主人公になることのできる映画を開発しているそうだが、そんな映画などなくても、誰もがどんな映画よりも壮大なスケールのこの世界の主人公なのである。画面ではなくてほんものの世界を見つめてほしい。そして、すばらしい自然の営みに感動する感性を身につければ、どんなゲームよりも大きな喜びが得られるはずである。文明が進み、たとえ自然と切り離された世界にあっても、自然を愛し、アスファルトでないほんものの大地を忘れないでいたい。

狭くとらわれた「脳の支配」から脱し、自らの全身を動かして、もう一度、この地球上の全生命のネットワークに復帰しようではないか。そして自然と共に生きる力を取り戻そう。二十一世紀を真に生きる力とは、そこにあるはずである。