第14回(平成15年度)
第14回(平成15年度)在校生論文顕彰は1月に締め切り、審査を経て、最優秀賞1編、優秀賞2編、佳作5編、特別賞2編が選ばれました。結果発表と表彰は2月に行われました。
- 基本テーマ
- 『日本の若者』
- 応募総数
- 291編
- 入賞作品
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題名 受賞者 最優秀賞 私たちの“視力” 3年
筒井 久実子優秀賞 Only Oneであるということ 2年
三谷 暢子優秀賞 現代人の矛盾性 3年
神谷 あゆみ佳作 未来を生きる人であること 3年
中川 真嘉佳作 言葉のちから 3年
杉本 真由佳作 ニッポンの若者 2年
野原 由美佳作 若者にとって大切な事とは 2年
川村 信仁佳作 未来への警鐘 1年
岩橋 貴史特別賞 「若さ」の意味 2年
森本 将朗特別賞 メッセージ 1年
澤田 仁美
最優秀作品
現代人の裸眼視力は落ちてきている。特に現代の若者の視力低下は、現代の大人の“若者時代”のそれよりも著しい。これは今更持ち出す話題ではないし、その原因はほぼ間違いなくテレビ、ゲーム、パソコンなどの“現代機器”の存在であろうことは、皆知っている。大量“読書”もここに入れていいかもしれない。ただ、“書”というより“画”を読んでいるというのが正しいのだろうが。
しかし私は、現代人の視力は落ちていない、とも考える。それには二つの理由がある。一つ目は至極簡単である。現在、眼鏡やコンタクトレンズといった視覚を補助する道具は大変発達している。それらと共生してモノが見えている、その我々の視力――矯正視力というが――は落ちていないと言っても良い。
もう一つの理由は、見る力は常に我々の中に存在し、決して消えることも衰えることも無い、というものだ。これはどういうことか。
そもそも、視力とは「眼で二点を区別し得る能力」(広辞苑より)、つまり「眼を使って判断する能力」である。これを、遠くの物が見えるかどうかが問題なのではない、と考えた。何かを見て、それをどう思うか、視野に入ったモノが何に見えたか。それこそが“視力”なのではないか。
そんなことを考えていたら、あることが思い浮かんだ。私たちの“視力”と大人の“視力”は違うのではないか。当然である。大人と子供の判断能力、判断基準が同じであるはずが無い。だがそういう意味で違うといったのではない。それは、年齢の差による違いではない。“現代の大人の若者の頃”の眼と、現代の若者の眼は違うのである。
「最近の若者は」とよく言われる。公衆の面前での化粧、大声での携帯電話の使用、場所を選ばない座り込み、見た目どころか機能性まで無視した服装。信じられない、と。勿論全ての若者がこうだというわけではない。私自身、これには当てはまっていないし、理解できない、と思っている。こういう行動をとっていない人は、こうも思う。人目が気にならないのか、恥ずかしくないのか。だが当の本人は恥ずかしくもなんとも無いのだろう。あれだけ堂々としているのだから。何故か。それは彼らには気にする対象の人が見えていないからである。見られていると思うのは、自分がその人に気付き、見ているからである。彼らは“その人”を見ていない。いや、“いる”けれど見えていないのである。そういった眼を持っているのである。教室に、中庭に、明らかにごみだと思われる物が落ちている。誰も拾わない。片付けない。しかし、掃除の時間になると、ごみ拾いの日になると拾うのである。それまで見えていなかったとしか言いようがない。“あった”けれど見えなかったのだ。
だが現代若者の眼は、このように“見えない”という力しか持っていないわけではない。スポーツや音楽など様々な分野で、若者による素晴らしい成果があげられている。史上最年少ということばをよく耳にする。こういったマスコミでとりあげられていることだけではない。身近なところでも充分に見られる。若者には、自分中心で他人に興味がない者が多いと言われる。それは事実である。しかしその一方で、福祉などといった面で他人に非常に興味をもつ若者が増えているのも事実である。我々は“かつての若者”が見ていたようなものをはっきりと見ることはできない。しかし何も見えていないのではない。確かに見ているモノがあるのだ。
流行についても考えてみたい。現代日本でこれを九割方引っ張り、盛り上げているのは若者であろう。(きっかけを作っているのは若者でない場合が多いが)「今、中学生の間で○○がはやっている」「今年、高校生には○○が人気だ」これは勿論、時代や環境に大いに関わっている。だがそれだけでは流行らない。流行らせたい対象者の視野にソレが入らなくてはならない。我々が見えるモノでなければならない。若者間で流行っているものについて不思議に思う大人もいるだろう。見えないモノを理解するのは難しい。若者が大人の世界を完全に理解できないのと同様に、我々若者にしか見えない世界もあるのだ。
しかしここで私は、若者は大人たちの見えないモノばかり見ている、相互理解は不可能だ、と主張したいのではない。我々は我々にしかない眼で物事を見ているのだとわかってもらいたいのである。大人と呼ばれる人には若者であった頃を、若者と呼ばれる人にはいつか自分が迎える姿を少しは思い浮かべてもらいたい。今見えているのは今であり、自分にはかつて見たもの・未来に見るものが存在するということを忘れないで欲しい。
プラスチックやガラスのレンズを通してモノを見るのが当たり前のようになってきた今だからこそ、自分の“視力”を育て、鍛え、そして大切にし、世を見つめていくべきだ。私と同世代の、ワカモノに伝えたい。我々は、新しいモノを発見し、切り開いていく「可能性がある」のではない。「必ず」見つけられるのだ。今を生きる“視力”があるのだから間違いない。そしてこの力はなくなることもなければ衰えることもない。私は知っている。