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半田高等学校
在校生論文顕彰

第15回(平成16年度)

第15回(平成16年度)在校生論文顕彰は1月に締め切り、審査を経て、最優秀賞1編、優秀賞2編、佳作5編が選ばれました。結果発表と表彰は2月に行われました。


基本テーマ
『「生」または「伝」』
応募総数
210編
入賞作品
 題名受賞者
最優秀賞 想いは正しく伝わらない 3年
前野 拓也
優秀賞 情報とともに生きる道
ー自己確立道ー
3年
森下 真穂
優秀賞 生きること、伝えること 1年
鈴木 千暁
佳作 新時代の生存競争 3年
盛田 真子
佳作 生きること 3年
榊原 弘之
佳作 生命の大切さ 3年
榊原 友里
佳作 生きるということ 2年
小栗 由佳
佳作 アジアの中枢で、共に生きる 1年
原 裕一郎

最優秀作品

想いは正しく伝わらない
前野 拓也

私の好きな文章の一つに、古今和歌集仮名序がある。その冒頭は『やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける』というものだ。人が何かを思う心から、たくさんの言葉、そして歌や文章は生まれてくる。言葉の無限の可能性を示しているようで、私はこの文章が好きだ。千年以上も前に書かれたものだが、この文章で示されている考えは現在でも十分通用すると思う。言葉は人間社会において、今も昔も変わることなく大切な役割を担ってきた、なくてはならないものである。しかし、言葉そのものの機能によって問題が生じることもある。

そもそも、「言葉」とはなんだろうか。辞書によると、「ある意味を表すために口で言ったり字に書いたりするもの」である。意味を表す必要が出てくるのは、何かを他者に伝えたいときである。身振り手振りでは不十分な情報を他者に伝えたい、そのためだけに、言葉は生まれ発達してきたのだ。古代エジプトのロゼッタ=ストーンも現代のホームページも、人にものを伝えるという目的では同じものである。

言葉がものを伝えるとき、そこには二段階の過程がある。情報を言語化して自分の外の世界に送り出す「発信」と、それを受け取って情報を自分の中の世界に取り込む「受信」である。この過程は一対一の関係でも多対多の関係でも何ら変わることはないが、どの場合においても、常に情報が正しく伝わるとは限らない。いや、むしろ正しく伝わることの方が少ないのではないだろうか。それはこの二つの過程において、情報がねじ曲げられてしまうことが頻繁に起こっているためである。

まず、情報を「発信」するとき。人は伝えたいものの全てを言葉に置き換えられるわけではない。その代表例が「感情」である。例えば、失恋したときの感情と、卒業して友人と別れなければならないときの感情は、心の中では別のものである。しかし、それを言葉で表そうとすると「さびしい」という同じ語になってしまうのである。それぞれにぴったりと該当する言葉が存在しないのだ。もちろん、他の場合についても同じことが言える。自分が感じているこの感情を何とかして他者に伝えたい、でもそれに見合う言葉がなくてもどかしいという思いは、誰しも一度は経験した事があるだろう。この点では、歌詞でよく見かける「言葉にできない」というフレーズは、案外一番正しく感情を伝えているのかもしれない。言葉は、人の感情を表すには数が少なすぎる。

次に、言葉を「受信」するとき。同じ言葉であってもそれから受け取る情報は人によって違う。前の例をひくなら、「さびしい」という単語から受け取る感情は人によって微妙に異なってくる。失恋の感情は、少なくとも同じ経験をしたことのある人にしか分からないだろう。さらに、たとえ同じ人であっても、そのときの精神状態によって受け取る意味が違ってくることもある。「おめでとう」という言葉は、時と場合によっては賞賛にも皮肉にもなりうる。言葉は、誰にとっても常に同じ意味を表すとは限らない。

このように、人から人に情報が伝わるときには二重の不十分な変換が起こっている。これは老若男女どの関係でも見られることだが、最近は特に若者と大人の間において、この食い違いは大きなものになってきているように思う。

「最近の若者は短絡的になった」などと言われるが、それは半分だけ正解だと私は思う。確かにそのような人もいるが、それはごく一部のことである。大半の若者は考える事は考え、引くべきところはちゃんとわきまえている人が多い。それでも何故、短絡的だと言われるのか。それは「自分の考えを大人に伝える術を知らない」からではないだろうか。若者の思考の経緯が大人には分からないから、彼らが短絡的であるように見えるのである。では、その原因は一体何か。

最近はますます活字離れが顕著になり、若者の語彙は少なくなってきている。さらに同年代の仲間だけに通じる、いわゆる「若者言葉」が蔓延してきている。そのために自分の考えを「若者言葉」の通じない大人に伝えるのは難しく、面倒なことに思えるのだ。「大人は分かってくれない」というより「大人に分かるように言えない」のである。現に彼らは、仲間内では感情や考えを(大人とよりは)共有できている。それは彼らの言葉が同じだから、わざわざ難しい言葉に変換しなくても事足りるからである。そういう状態に慣れてしまうと、言葉の通じない大人には意思を伝えられなくなる。

さらに、語彙不足はもう一つの問題を引き起こす。それは若者による理不尽な事件の増加である。自分の思考・感情が言語化できないからどう処理していいか分からず、未消化のまま内部にどんどん溜まっていき、それが爆発したとき事件を起こしてしまうのだ。犯行の動機が「イライラしてたからやった」というのはこの典型である。何にどうイライラしていたのか、その感情の分類も処理の仕方も分からずに事件(しかもそれでイライラを処理できているわけでもないことが多い)を起こしてしまう。そして動機は本人にも分かってないのだから、大人にはなおさらよく分からないのである。

ではこの食い違いはどうすればいいのか。語彙を増やすのも大事なことだが、前にも書いたように言葉には限界があるから、それだけでは解消できないだろう。私が思うに、まずは若者も大人もお互いに我慢強くなることが必要である。若者には、「どうせ言ってもムダ」と諦めてほしくない。それは伝える努力を怠るもとになるのだから。大人には、「若者の言うことなんて」と決め付けてほしくない。その言葉の中に、本当に彼らが伝えたい事が隠れているのだから。他者が相手である以上齟齬は必ず生じる。しかしお互いが理解しようと歩み寄ることで、それは少なくすることができるのだ。言葉は、発信者と受信者の距離が近ければ近いほどより正確に伝わるものである。

古今和歌集仮名序はさらにこう続く。『力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり』つまり、歌(この場合「言葉」と言い換えても問題はないだろう)は人間だけでなく、天地や神をも動かす力を持っているのだ。そんな言葉の力も、相手に伝わらないのであればまるっきり意味がない。相手に伝わってこそ、言葉は初めて力を持つのである。

人が人を理解するのはとても難しく、想いは正しく伝わらない。しかし、だからといって伝えることを諦めていてはもったいない。正しく伝えようとする意志と努力が大切である。この強力な言葉の力を使えるのは、私達人間だけなのだから。