第19回(平成20年度)
第19回(平成20年度)在校生論文顕彰は1月に締め切り、審査を経て、最優秀賞1編、優秀賞3編、佳作5編、特別賞2編が選ばれました。結果発表と表彰は2月に行われました。
- 基本テーマ
- 『大人の定義 ~私の考える「大人」とは~』
- 応募総数
- 398編
- 入賞作品
-
題名 受賞者 最優秀賞 心の中に『猫』を飼え 2年
田中 康隆優秀賞 大人の定義 3年
下郷 沙季優秀賞 大人と責任、大人の責任 3年
前野 かおり優秀賞 『大人』と『子供』の境目とは 2年
中道 亜優佳作 『大人』の実像 3年
杉江 美穂佳作 更新可能な価値観 2年
木全 直子佳作 大人幻想
~家族から学ぶ『大人力』~2年
芝崎 有紀佳作 『大人の定義』とは 2年
青木 秀憲佳作 大人になる条件 2年
今井 美月特別賞 大人になるために 1年
八重尾 友理特別賞 社会から考える 1年
松家 由実
最優秀作品
「ねえ、サンタさんていると思う?」
五歳の少女が発したその一言に脳科学者・茂木健一郎は注目した。何気なく聞き流してしまいそうなこの一言をきっかけに、彼は著書「脳と仮想」を書き上げた。現実に存在しない仮想の存在価値を論じた画期的作品――そんな難しそうな本が子供のたわいないサンタの話から生まれた。茂木の行動はどれも予測不可能で、僕を惹き付ける。
世間でいう大人とは、辞書によれば「一人前の年齢の人間として思慮分別があり、社会的な責任を負える人」のことだ。ただ茂木を見ると、僕はその大人の定義に違和感を覚えずにはいられない。僕が彼のことを尊敬する「大人」だとみなしているのは、彼がそんな辞書の定義を満たしているからではない。彼には不思議な輝きがある。人を惹き付け、ちょっと大袈裟かもしれないが、世界を良い方向へ導くようなそんな輝きがある。彼に見いだせる大人の定義は、辞書とはまた別のものなのだ。
それでは、茂木健一郎に見いだせる大人の定義とは何か。そのことについて彼がサンタの話から何を考えたか、という点から考えてみよう。サンタの話を聞いたとき、彼の頭には「サンタなんていない」という一般の否定的な考えではなく「どうして、いもしないサンタが話題になるのか」という、ある種独特で前向きな疑問が浮かんだに違いない。その革新的な思考回路を支えたのは、大人よりむしろ子供が持つ「好奇心」だ。好奇心から彼はサンタと脳の話が結びつかないかと思ったのだろう。考えてみると世界を発展させたものの多くは、例えばライト兄弟の飛行機など、知識だけではなく好奇心から生まれたものだ。ライト兄弟は機械に乗れば人は空を飛べるという知識を持っていた訳ではない。どうやったら空を飛べるか、その好奇心から飛行機という一大発明を成し遂げた。
そうなると、僕が求める真の大人の定義とは好奇心を持っていること・・・なのだろうか?確かに好奇心こそ、世界を変えてきた原動力であり大人の理想条件である。しかし、好奇心は子供も持っているのではないか。好奇心が大人の理想条件だとすると子供は必然的に大人の条件を満たしていることになる。二十歳なんて待たなくても、どの子供も大人である。だが実際には、魅力的な大人とただの好奇心旺盛な子供とは、何かが決定的に違う。つまり大人の定義とは好奇心だけではない。更にまた別の要素が加わっているのだ。
更なる大人の理想要素。それを考える時思い出すのは、モディリアーニという画家のことだ。かの巨匠ピカソと同じ時代に生まれた彼は、独特の曲線で人物画を描き続けた。
僕はあえて言わせてもらうが、彼の絵を上手いとは思っていない。以前彼の作品展へ行ったとき、絵の解説に「卓越したデッサン力に裏打ちされた描写」という旨の記述があったのを見て、軽く笑ってしまったほどだ。一般的な人体バランスを無視した線――彼の絵はいわゆる卓越したデッサンの世界からは程遠い。それでも彼の絵と対峙した時、僕は無条件に彼の絵を素晴らしいと思った。
何故なら彼の絵には、彼の美の追求があったからだ。極端に長い首、縦に引き伸ばしたような顔、アーモンド形をした瞳のない目。そのどれもが晩年に近づくにつれ洗練されていく。デッサンを捨てた落書きのような描写が、次第に写実から離れて別の美の形を作り出していく。彼の最晩年の作品からは、まだまだ世界が広がりそうな気がした。彼が持病により三十五歳という若さで亡くなったことが何より惜しい。彼がもう二十年長く生きていれば、もしかしたらピカソさえも凌駕するほどの芸術作品を生み出したのではないか。
僕は、彼にも茂木と同じ輝きを感じた。その輝きは彼の、底が見えないほどの美への追究の姿勢ではないかと思う。絵は表現方法を変えることで写真とは違った美しさを創り出せる。その絵の可能性を彼は生涯かけて模索した。自分の道をひたむきに探し続ける、これが大人の理想条件に必要なものだ。好奇心を持つだけでは足りない、その段階から更に興味をもったことをどこまででも追いかける姿勢こそが大人の理想要素なのだ。
「好奇心」と「探求の姿勢」を生涯持ち続けること。これが僕の考える大人の定義であるが、実のところ僕はそんな難しいことを考えてはいない。人間は誰しも、強制されたことを一生は続けられない。誰かに「好奇心が大事だ、探求の姿勢を常に持て」と言われたとしても、経験上三日後には忘れて、そこには以前の自分がいる。大人の定義は誰にでも目指せるものでなければならないと思うし、実際そうだから世界は発展し続けているのだ。だから僕は、ここで一つ定義の捉え方を変えた。
その定義は、「心に『猫』を飼うこと」だ。
心に「猫」を飼うとはどういうことか。ここでいう「猫」は現実の生物としてのネコではない。ただ、鎖に繋がれることなく自由で興味の赴くままに行動し、一つのものに突き進むイメージはネコそのものである。そしてそのネコの像をそのまま人間の心に映し込んだものが「猫」である。好奇心を持て!とか、探求する姿勢を忘れずに!といった啓発ではなく、ただ自分の意志で心の中に「猫」を飼おうとするのだ。ネコがじいっと興味を持った対象を見つめるように、自分の心が自然に、興味を持つ対象へと進む感覚を持つ――これこそ、真の大人の定義だと思うのだ。
茂木は僕の知る限りどんなことにも目をキラキラさせて接している。彼は大学で十二年かけて物理学も理学も法学も学んだ。彼の心の中の「猫」の好奇心は全ての物事へ向いていて、時を経ていつしか脳という一つの対象に向けられるようになったのかもしれない。
モディリアーニは芸術家としての「猫」を心に飼っていたに違いない。ある評論家がこんなことを言っていた。「モディリアーニにどんな人物を描かせても、モデルではなくモディリアーニの顔になる」。彼が三十五年の人生を賭して描いていたのはモデルではなく、心の中の「猫」が目指す一つの曲線美の境地だったのかもしれない。
世界の発展に貢献した大人たちに共通するのは、その行動は誰かの命令ではないということだ。彼らは自分たちの「猫」に従ってその道を突き進んだのだ。それこそが、魅力的な大人になるための一番重要な鍵ではないのか。
だから僕たちも心に「猫」を飼うべきだ。心の中の「猫」を育てずに知識だけを詰め込み、一般的な大人の定義を満たすだけの人間になってしまったなら、自分の可能性も世界の発展もそこで終わってしまう。僕はそれが怖い。本当の「大人」になるために「猫」を飼うことは今日からできる。そこに誰かの命令はいらない。興味を持った物事へ立ち止まらずネコのように進んでいくのだ。あなたが心の中に「猫」を飼えば、世界はもっと楽しくなるに違いない。僕は「猫」だらけの世界に、期待を寄せずにはいられない。
<参考文献>
『脳と仮想』(著・茂木健一郎/新潮社)
インターネット百科事典「ウィキペディア」(http://ja.wikipedia.org/wiki/)より
「茂木健一郎」「アメデオ・モディリアーニ」「パブロ・ピカソ」の項(2009/1/7)