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半田高等学校
在校生論文顕彰

第20回(平成21年度)

第20回(平成21年度)在校生論文顕彰は1月に締め切り、審査を経て、最優秀賞1編、優秀賞3編、佳作5編、特別賞3編が選ばれました。結果発表と表彰は2月に行われました。


基本テーマ
『伝え続けたい大切なもの』
応募総数
250編
入賞作品
 題名受賞者
最優秀賞 死なない方法 3年
田中 康隆
優秀賞 私が伝えられること 3年
青松 恵里奈
優秀賞 真の国際化 3年
チャンタナ・ ガジャナヤカ
優秀賞 諦めないDNA 3年
山下 夏実
佳作 幸せとは何か
~私なりの幸福論
3年
角 朋夏
佳作 『星に願いを』はどこへ行く? 3年
原田 億
佳作 お花畑主義的理想論 3年
木全 直子
佳作 カンジュセイと言葉 3年
伊藤 聡美
佳作 今を『平和』だと感じること 1年
大庭 実紗
特別賞 『はい』で伝える心 2年
原 洋二郎
特別賞 今、伝えたい『誇り』 2年
小笠原 弓華
特別賞 感謝 1年
高畑 智瑛

最優秀作品

死なない方法
田中 康隆

一昨年の夏、地面が焼けるように暑い日のことだった。その日、僕は地域のTさんという人に道を尋ねた。Tさんはとても親切で、いつもニコニコしているお爺さんだった。道を教えてもらった僕は「一人で歩いていけますから」と言ったのだが、Tさんはわざわざ目的地まで案内してくれた。数メートル歩くだけで顔から汗がしたたり落ちた。年配のTさんには相当きつかっただろうと思う。でもTさんは愚痴一つ言わずに、いつも通りの笑顔で目的地まで連れて行ってくれた。

その半年後、Tさんは亡くなった。都合が合わず、僕は通夜にも葬式にも行けなかった。Tさんと満足のいく別れもできないままに、彼は僕の住む町からいなくなってしまった。僕とTさんは、そんな頻繁に会うような親しい関係でもなかったが、もう彼の家の前を通っても、彼の姿はどこにもない――そのことを考えるたび、心のどこかに穴が開いた感じがしていた。

しかし、去年の夏のことだ。僕が自転車に乗って信号待ちをしていると、知り合いの女の子が呼びかけてきた。振り向くと、見知らぬ外国人二人と一緒に困ったような顔をしていた。話を聞くと、どうやらそのネパール人らしき二人は、コンビニに行きたいらしい。コンビニは僕の進行方向の正反対にあったが、僕はネパールの人たちをコンビニまで連れて行った。

その時、僕は今までにない感覚の中にいた。なぜ、今自分は見知らぬ外国人の道案内をしているのか。重い荷物を載せ、操作しづらい自転車を手で引きながら道案内をする――今までの自分だったらまずやらないはずの行動である。彼らを無事案内し終え、本来の目的地へと自転車を走らせながら、僕は気付いた。道を教えるだけでいいのに、自分で実際に道案内をする――これは「Tさんの行動」ではないか。

「死」とは一般的に、「全てを失うこと」とみなされている。死んでしまえば身体はなくなり、何も見えず、何も聞こえず、何もできなくなる。画家だったら絵を描けなくなる。家庭を持つサラリーマンだったら、家族と話すことができなくなる。教師だったら、もう教え子に会うこともできなくなる。そして残された人たちもまた、故人とかかわりをなくす。

だが僕は、自分の道案内の経験を通して思った。「死ぬことによって、生前の全てを失う」、ということは、違うのではないか。

人は他人に、知らないうちに影響を及ぼしている。逆に言えば、人は他人の影響を知らない内に受けている。ある日、友達と話していたら、「昨日○○先生の授業を初めて受けたんだけど、お前の口癖って、あの先生からうつったんだな」と言われた。授業が面白くて、2年間ずっと真剣に話を聞き続けていた先生のことだった。授業内容を理解しようとしていたら、そんなものまでいつのまにか学んでいたらしい。こんなたわいないことから、ものの考え方や性格、能力まで、人は周りの全ての人に影響を及ぼす。本来ある人の行動であったものを、いつのまにか他の人も行うようになっている。僕はこの現象を、「行動のパラサイト」と名づけた。Tさんの例はまさにそうだ。彼は善意で僕に道案内をしてくれたに違いない。そして道案内された僕にもまた、善意らしきものが生まれ、道案内をすることに至った。言い換えれば、彼の行動は僕の行動となったのだ。

こうして行動が「パラサイト」していく中で、もたらされるものがある。僕はずっと、死ぬことが怖かった。人生で積み上げてきたものを失うことが惜しく、何も感じられない状態に陥ることが怖かった。でも、実際にはそうではない。死んだとしても、ゼロにはならない。身体がなくなれば、たしかに何もかも感じられなくなるかもしれない。自分が持っているものを失ってしまうかもしれない。でも、自分の生きていた証は残り続ける。いや、残り続けるだけではなく、世界に影響を及ぼし続けるのだ。「死んだ時に全てがなくなる」のではないとしたら、自分が今生きていることも、精一杯生きることも、無駄ではない。「行動のパラサイト」が起きている限り、生きることの中に、無駄はない。そのことに気付いてから、一日一日を生きることも、死について考えることも、少し楽になった。

ところで、「行動のパラサイト(寄生)」という呼び方がひっかかっている人がいるかもしれない。寄生だなんて嫌なイメージをもつ言葉で表現するのはふさわしくない、と思うかもしれない。うつる、とか、連鎖する、とか、伝わり続ける、とか、他にも表現はありそうだ。しかし僕には、あえてこう呼びたい理由がある。

その理由を説明するのに、幼児虐待の話を挙げたいと思う。「虐待の世代間連鎖」という言葉を、聞いたことがあるだろうか。子供の頃に虐待を受けた人は、自らが親になった時に我が子に虐待を行うようになる、という説である。子供の頃に虐待された経験が、自らが虐待をする経験へと繋がっていく。僕が「パラサイト」と呼ぶ理由はこのような人間同士のかかわりにある。僕がTさんから受け継いだものは、人へのいたわりの気持ち、親切心という人として大切なものだった。だが、他人から悪い影響を受ける人もいる。「行動のパラサイト」は、決して良いものだけを伝えるものではないのだ。子供のころ虐待を受け、自らも虐待をした親が、「虐待をするつもりはなかった」と証言することがあると聞く。自分の意思にかかわらず、「行動のパラサイト」はいたるところから忍び寄ってくるのだ。そういう社会の中で生きる僕たちに必要なのは、最善の「行動のパラサイト」を行っていくために、責任をもつことだ。その為には、自らの行動が周りの人にどんな影響をもたらすか分からない危険性に、十分注意を払うべきだ。

「人は死んでも、周りの人の心の中で生き続ける」という話はよくある。「いつまでも守るべき伝統」なんて話もよく聞く。僕はそういう言葉を聞くたびに、その意味を十分に考える必要性を感じる。残っていく自分が、悪影響や、人として残してはいけないものをもたらす存在になっていないか、残り続けている伝統は、本当に守るべきなのか。安易に残すことだけを考える僕たちに、「パラサイト」という言葉は、危機感を与えてくれると思っている。これが、僕が「パラサイト」と呼ぶ理由である。

自分が生まれてから死ぬまでの行動は、行動自体の良し悪しにかかわらず、全て他の誰かに影響を及ぼしている。だから僕らは生きていくうえで、「責任」をもたなければならないのだ。自分の行動が誰かに影響を及ぼし、その人の人生を変えていく、そのことに対して、真摯に向き合っていかなければならない。

病床で俳句を詠み続けた正岡子規は、こんな言葉を残した。

「悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違いで、
悟りという事は如何なる場合にも平気で生きている事であつた」

文豪の力は凄い、と感じる。彼の言葉が後世の僕に伝わり、そして僕は何があっても平気で生きていこうと決める。「精一杯」の責任をもって生きていこうと決める。これも「行動のパラサイト」の一種だろう。和歌を詠むことを生涯の活動とした彼は、言葉によって、何百年も先の人々まで、自らの思想を伝え続けるだろう。

続けての引用になるが、「精一杯生きる」ということについては、一昨年までノーベル賞に最も近いと言われながら、ガンでこの世を去った科学者・戸塚洋二氏が死の数ヶ月前にブログに書いた、こんな言葉を引用したい。

「よく人はしたり顔に、『残り少ない人生、充実して過ごすように』と、すぐできるようなことを言います。・・・私のような平凡な人間にこのアドバイスを実行することは不可能です。・・・できる限り普通の生活を送る努力をするくらいでしょうか。私の『努力』は、見る時はちょっと凝視する、読むときは少し遅く読む、聞く時はもう少し注意を向ける、書くときはよい文章になるように、という意味です」

早すぎる死を惜しまれながらも、彼は大切なことを伝えてくれた。自らの死に直面した彼の言葉もまた、「精一杯生きる」ということが、内実のない言葉として終わらないようにするための、大切な「行動のパラサイト」をもたらしてくれたのだ。

あなたは危機感を持っているだろうか、「精一杯」生きているだろうか。身体がなくなった後も、僕らは「死なずに」誰かの心の中でこの世界を変え続ける。そのことに安堵すると共に、影響力を及ぼしうる自分の死後に責任を持たなければならないと分かった。ならば命が消える最後の瞬間まで、後世のための「行動のパラサイト」をし続けるべきだ。きっとこの考えこそが、Tさんが僕に最後に伝えてくれたものであり、僕らが生涯を賭して伝え続けるべきものだと思っている。