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半田高等学校
在校生論文顕彰

第22回(平成23年度)

第22回(平成23年度)在校生論文顕彰は1月に締め切り、審査を経て、最優秀賞1編、優秀賞3編、佳作5編、特別賞1編が選ばれました。結果発表と表彰は2月に行われました。


基本テーマ
『つながり』
応募総数
247編
入賞作品
 題名受賞者
最優秀賞 「つながり」は繭の糸 3年
大庭 実紗
優秀賞 遺産 2年
谷山 孝直
優秀賞 幸せの言葉 2年
岩崎 風音
優秀賞 時間の川 1年
浅井 ひなの
佳作 出発点は家族 2年
篠田 有里
佳作 「私」という存在 2年
磯貝 友香
佳作 縦のつながり 2年
坂野 智香
佳作 受け継がれていく大和魂 1年
勝崎 裕香子
佳作 妹からの贈り物 1年
福山 晴花
特別賞 部屋にあった紙切れによせて
-消えない「つながり」-
3年
岡戸 愛

最優秀作品

「つながり」は繭の糸
大庭 実紗

小さいころ、私にはとても仲の良い友達がいた。常に一緒にいて、毎日喋っても飽きないくらい仲が良く、周囲からも仲が良いねと言われることが何度もあった。だが、一緒にいる時間が長くなるにつれて、私はその子を完全に分かった気になっていった。その子が考える事も、言う事も、思う事も、全て分かった気になっていった。これはいったいなんという傲慢な事なのだろう。仲の良さに思い上がり、その子のことを私は勝手に解釈をし、私が思うように偶像を作り上げていたのだ。自分の傲慢な考え方に気づいた時は自分自身に愕然とした。全く同じことを考える人間なんていない、ということはもちろん分かっていたのに、私の考え方には反映されていなかった。今でもふいに自分がそう考えてないか怖くなる時がある。家族に自分の勝手な像を押し付けていないか、友達に押し付けていないか。誰かのことを分かった気になっていないか。急に怖くなって、自分の行動を振り返って、後悔をする。私は私であって、決してほかの人にはなれない。自分の考えを怖く思ううちに、人との距離を測ることを覚えた。

東日本大震災のニュースを聞くたびに胸が苦しくなる。三月十一日。私は電車に乗っていて、丁度坂部駅で揺れを感じた。電車が揺れただけかな、と思い家に着くと、テレビが震災の報道で埋め尽くされていた。地震と津波に恐怖を感じて、被災した方のことを思うと胸が痛くなる。だが、どんなにニュースを見ても、どんなに新聞を読んでも、どんなに自分で考えても、私は被災した方に“なる”ことは出来なかった。自分が被災したと考えてみても、心の奥底では「でもそうではない」という気持ちが隠れていた。どんなに被災した方の気持ちを理解しようとしても、“なる”ことは出来ない。同情も悲しみも辛さも私の理解できるものではなかった。結局私は私で、その辛さを理解できないことが苦しかった。

二つの例を挙げた。この二つの事を通して私は、「自分は自分でしかない」と強く感じた。私は私で、ほかの人になることは出来ないし、まして完全に理解することなど出来るはずがない。私と全く同じように考え、行動する人など居ない。では「相手の立場に立って考える」とは何なのだろう。相手の立場に立ったところで、それは私の目を通したものでしかなく、相手の目を通して見たものではない。私の目には今までの経験や考えや先入観がこびりついていて、相手の目にも同じようにこびりついている。そこから見た物や見た目は同じでも、違う捉え方をされるのだ。私はどんなに気の合う友達とでも全く同じことを考えることは出来ないし、被災した方の気持ちに完全になれることは出来ない。私は私から離れられないのだ。

「身体の個別性」という話の中で、筆者の浜田寿美男は「自己中心的な利他主義者」という言葉を使う。どんなに相手を思っても結局は自分の視点を離れるとことは出来ず、相手のためを思ってしたことは自分から見た「相手」という存在に有益なことをするだけであって、自分というフィルターを通した相手である。簡単に言うと「思いやり」という言葉だ。電車でお年寄りに席を譲る。それは年配の方はずっと立っているのは辛いだろう、または世間的に譲るべきだろうと自分が判断したから譲る。しかし本当に相手のためになっているのだろうか。もしかしたら席を譲られた人は年寄り扱いをされて傷ついているかもしれない。決して相手がどう思っていたかなど分かるものではなく、理解することは出来ない。私は完全に相手にはなれないのだ。

「つながり」とは何なのだろう。私は「つながり」とは“守るもの”ではないかと思う。“人が守るべきもの”ではなく“人を守るもの”。教科書に載っている有名な作品に中島敦作の『山月記』という話がある。主人公の李徴は優秀な官吏だったが詩家の道を志す。だが成功せず再び官吏に戻り、ある日自分の中の自尊心や羞恥心に食われ発狂し虎になる。この話を読んで胸に刺さるものがあった。自分にも当てはまるのではないか、と。妙な自尊心を持って、相手を考えて、遠ざかってはいないかと。この話で李徴は人と遠ざかったと言う。そして唯一の友である袁と別れたとき、本物の虎になった。私が思うのは「つながり」が切れて、虎になったのだ。周りとの関係、ものとものとの関係を切っていったときそれは孤独にいきつく。李徴にとって「つながり」を断ち切ったそのものの姿が虎だったのだろう。そのつながりは李徴、私たちを守り、孤独にさせないためのものなのではないか。イメージすると、中心に私がいて周りの家族や友達に糸が伸びていてつながっている図。そしてその糸は私を包み、私は繭のように守られている図。糸は尊大な羞恥心を覆い、李徴をとどまらせたのだ。この糸が断ち切られたとき私は孤独になり内面の醜い感情に飲み込まれる。この糸があるからわたしは存在するのだ。つながりとは“守るもの”なのだ。

現代の忙しい毎日のなかで私はつながりを見落としがちだった。なんとなく守られている感覚があって、それは家族がいて友達がいてちゃんといるべき居場所があったからだ。なんとなくの感覚に感謝や感動もせずに当たり前に生きていた。それは誰しもそうだと思う。だか東日本大震災でつながりが崩れた方々がいる。当たり前と思うものが崩れて当たり前ではなくなっている。このつながりの崩壊によって取り残されている人がいるのではないか。「つながり」が今にも途切れそうで自分を失いそうな人がいるのではないか。そうした人のために私は繭の糸になれないだろうか。

私は完全に他人になることは出来ない、と書いた。自分を通した相手しか見ることが出来ないからだ。中心に居る私は、相手と視線を共有することは出来ない。だからこそ、相手を放り出してはいけない。相手は自分ではない。完全に理解なんて出来ない。そうわかった上でも私に出来ることはあるはずだ。自分は自己本位になっていないか。自分は他人本位だと勘違いはしていないだろうか。常にといかけなければならない。私は被災した方の気持ちを完全に理解することは出来ない。自分のこととして受け止めて考えるなんておこがましい。だか理解できないからといってあきらめていいのだろうか。理解できなくても相手に寄り添うことは出来るのではないか。家族や友達が私の繭の糸になってくれるように、私も誰かの繭の糸になって守ることは出来るのではないか。

新聞であるコラムを見た。被災地で「心のケア、お断り」という張り紙をしている避難所があったそうだ。カウンセリングをする難しさ。相手の気持ちを理解する難しさがこの言葉から伝わる。そこで筆者はこうまとめるのだ。「かんたんに相づちを打たないこと、わかったつもりにならないこと」そのとおりだと思う。相手を理解することなど出来ないのだからわかったつもりになってはいけない。私から見た相手は、結局私の考えたものでしかないのだ。だからといって理解できないと放り投げないで、寄り添うことで相手の繭の糸になり包み込み守る。理解できる出来ないが重要なのではない。あともう一歩踏み出せるかが、守る力をもったつながりへと変わっていくのだ。
 

参考文献

第一学習社 改訂版高等学校現代文

「身体の個別性」 浜田寿美男

「山月記」 中島敦

中日新聞 朝刊2011年12月7日付け

時のおもり 被災者との隔たりを知る 鷲田清一