第7回(平成8年度)
第7回(平成8年度)在校生論文顕彰は1月に締め切り、審査を経て、最優秀賞1編、優秀賞2編、佳作5編、特別賞2編が選ばれました。結果発表と表彰は2月に行われました。
- 基本テーマ
- 『交 流』
- 応募総数
- 167編
- 入賞作品
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題名 受賞者 最優秀賞 自分という存在を証明すること 3年
宮田 香織優秀賞 「私と古典」
~知りたいと思うこと~3年
後藤 真由香優秀賞 桃源郷で考える 1年
富田 啓介佳作 「枠」を超えて 3年
相内 美香佳作 死より老いが怖い 3年
金澤 多恵子佳作 上を向くこと
― 自然との「交流」 ―1年
中井 野里衣佳作 心のままに 1年
田中 美奈子佳作 心の中を覗いて 1年
坂本 麻里子特別賞 世界を結ぶ情報 3年
神谷 明寿特別賞 国際交流 3年
池田 文
最優秀作品
考え事をしていたり、何かに心動かされたりした時に、突然思い立ったように文章を書き出すことがある。けれども自分の考えを文章化するのは難しく、いつでも書いたり消したりの繰り返しである。
そうやって書いてみた文章が、いつの間にか大学ノート半分を埋めるようになった。それ以外に自分が書いた感想文や原稿などを加えると、高校三年間で私はけっこう文章を書いている。今、改めてそれらを読み直してみると、同じ「私」という存在が書いた文章のはずなのに、書いた時期、又はテーマによって今の私と意見の違う所があったり、矛盾するような二つの意見が書かれていたりする。まるで自分が書いたものでなくて、別の誰かの文章を読んでいるようだ。そして私には、それらの文章が、いつか過去の一時点に存在していた別の自分、という存在から現在の私、そしてさらに先にあるはずの私に向けたメッセージのように感じられたのである。
以前、大人になるという事について友人たちと議論したことがある。人は何故、大人にならなくてはいけないのか。その議論は延々と続いたので、いろいろと考える事も多かった。私は時によって大人になりたかったり、ずっと子供のままでいたいと思ったりした。
現在の私は、大人になるべき時になればそれで良いのだと思うようになった。そう考えるようになった理由は、「大人になる」ということは、自分をより深く理解するようになることだと考えるようになったからだ。そう思うようになるまでには、いろいろ悩むこともあった。その頃のノートの中に、「今の自分なんて嫌いだ。別人になりたい」という言葉がある。その時の私が自分のどこが嫌でどのように変わりたかったのか、たった一行のこの言葉だけでは今は分からないが、行間に悩んでいた自分の姿が見えるようで切なくなる。そこには「自分」という存在から逃げ出したくて、服装を変え、髪型を変えて必死になっている私がいるからだ。ともすると忘れてしまいがちな苦しいこと、嫌なことでも書いておくと、忘れてしまってもまた考えられる。私が文章を書く理由の一つである。
ここで、文章を書くということについて、私なりに少し考えてみたい。元々、文章を書くというのは二種類に分けられる。書くという行為の向こう側に他者が存在するかしないかということだ。言い換えてみれば、他者と交流するための文章か、自分と交流するための文章かということである。前者の代表としては手紙が、後者の代表としては日記が挙げられるだろう。私が文章を書くのは大抵は後者である。何かに心動かされた、その対象と、自分の心の動きとを、書くという行為によってとらえようとするからだ。それは正確に表現することが難しいけれども、漠然とした考えを断片的に書いていくうちに、自分の思いは次第にはっきりとしてくるようになる。そうやって、私の心、またはその一部が残るのである。時にはそれは私の思考の結果ではなく、思考の過程になっていることもあるが、私にとって、それは大した問題ではない。大切なのは、過去の私の記録だからである。
次に、書かれた文章について考えてみたい。先程も述べたように、私にとって、書くという行為は自分との交流である。正確に言うと、書くことによって私は現在の自分を理解しようとするのである。それではその後で、私の文章はどうなるか。一度書いた文章を、後になって読み返してみたら、独りよがりのほとんど内容のない文章で、読んで自己嫌悪に陥る、そんな経験がないだろうか。しかし、そんな情けない文章であるにしても、それは過去に存在した私が、苦しみながら書いた言葉なのである。少なくとも私はそう考える。だから目をそむけないでそんな文章を読んでみる。私は一体、何に心動かされたのか、何を忘れたくなかったのか、そして今に何を伝えようとしたのか。何か悩みがある時に、そうして過去を振り返ってみると、以外と似たような悩みをかかえた文章があったりする。それを参考にして現在の困難を克服することもできる。つまり、私にとって過去の文章とは、私という存在の記録であると同時に、悩みも聞いてくれれば相談にものってくれる相手のようなものなのだ。
私がこうして、文章を書く、という行為に没頭する(こともある)ようになって、自分のいろいろな側面が見えてくるようになった。人間というのは多くの側面を持った生物である。そんなことを自覚するようになったと言うこともできる。小さな頃、私は自分自身に矛盾した点を見つけると、必ずといっていい程、それを隠そうとしていた。他人から文句を言われるのが嫌だったからである。自分の多面性を否定していたのだ。しかし、それではやがて行き止まりにぶつかってしまう。ぶつかって悩んだ結果が、現在にある私だ。現在の私は、自分という存在についてこう考える。自分を見つめる時も、他人を見る時と同じように客観的に見つめたい。そして、たとえ矛盾しているにしても、その矛盾を、その時々に真剣だからこそ生じる成長の過程だと考えて、ありのままに受け止めたい、と。だから私はいつも真剣に生きている。それは誰にも証明できないが私自身が一番知っていることだ。そして、自分という存在、その考えを文章化することで、私は自分と真剣に対峙しているのである。
いつかまた、五年後、十年後になって、こうして書いた自分の文章を改めて読むという日もやってくるだろう。その時に私がどう変化していて、自分で書いた文章をどう感じるか。やはり自己嫌悪に陥るかもしれないし、真剣に文章を書くこと、そして自分自身に感心するかもしれない。願わくば、「こんな自分もいたんだな」と笑いとばすことができる程成長した自分になっていたいものだ。何であるにしても、後悔することなくいつも真剣勝負をし続ける私でありたい。過去の行動が今の私の理想と違っても、最善を尽くしていれば後悔する必要はない。それによって現在の自分がある、と思うからだ。そしてその時その時に私は文章を書く。これまでも何度かそうしてきたし、これからも出来る限り続けていきたいと思っている。そうすれば、またどこかで、その時々に気付かなかった私と出会うことがあるかもしれないからだ。自分を表現する。難しいことだが私はこれからも挑戦し続けるつもりだ。それが私にとっての自己の存在の証明だからである。