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半田高等学校
在校生論文顕彰

第8回(平成9年度)

第8回(平成9年度)在校生論文顕彰は1月に締め切り、審査を経て、最優秀賞1編、優秀賞2編、佳作5編、特別賞1編が選ばれました。結果発表と表彰は2月に行われました。


基本テーマ
『自分探し・生き方探し、何かを成すために』
応募総数
149編
入賞作品
 題名受賞者
最優秀賞 真の共生とは 2年
永井 理恵
優秀賞 ~自分の言葉に求める自分~ 3年
小野 正倫
優秀賞 昔と、今と、これからの私 3年
澤田 和美
佳作 友人と自己への自信 3年
有田 弘信
佳作 よく生きる、ということ 3年
加藤 祐樹
佳作 好き嫌いの考察 3年
鈴木 大輔
佳作 ブラジル人マテスさんから教えられた私の生き方 1年
片岡 理恵
佳作 ボランティア活動に輝ける自分を見つけて 1年
中井 葉月
特別賞 留学を通しての自分探し 2年
タニソン=ナヴァパット

最優秀作品

真の共生とは
永井 理恵

いつから他人と競争することが当然になったのだろう。どうして他人よりも優位でいなければならないのだろう。私たちは、勉強でも部活でも優劣をつけられ、順位や偏差値という数字に躍らされている。まるで食うか食われるかの弱肉強食の世界だ。時々、「頑張れ。努力をしないと生き残れないぞ。」と、疲れていても無理して自分に言い聞かせている私がいる。競争に勝つことが全てで、他人を思いやる心の余裕を失ってしまい、はっと我に返る。私は何を求め、何のために、何に勝ちたくて競争しているのかわからない。ただ目に見えない圧力に押し潰されそうなだけなのだ。

「共生」ー異物の存在を認めること。異種の生物が共同して生きること。

ある日、寄生虫に関する本を読んでいる時にふと見つけた言葉だったが、私にとっては非常に意味深いものに感じられた。その本では、寄生虫が体内に侵入すると、身体は反応を示し、免疫ができる。その結果、アレルギー体質を改善すると述べられていた。身体にとって有害な異物で、悪者だというイメージが強い寄生虫でも、人間の役に立つこともあるのだ。もちろん寄生虫にも生きる価値がある。何でも排除してしまえばいいとは言い切れないのだ。また、寄生虫とうまく「共生」できなかったから、花粉症やアレルギーといった新たな病気が蔓延してしまったのではないだろうか。

私の弟は、知能に障害があり、養護学校に通っている。弟の存在によって私は幼い頃から障害者という世の中では異物と見なされている人々のことを考えてきた。一日体験の福祉ボランティアなんかと異なり日常の問題であった。小学生ぐらいの頃は、泣き叫び暴れる弟の頭を押さえつけるのは母、私と妹で片足ずつを分担していた。当時の私たち家族は、弟の行動を常に監視し、いつ暴れるのではないかと怯え、神経質になっていた。もちろん長期休暇も交代で、弟の面倒という重大な役割があった。周囲の友達のように子供らしくはしていられなかった。家族旅行をしても、行く先々で弟に向けられる目に耐えられず苦痛だった。奇異なものでも眺め回すかのような冷たい目・・・・。家族に障害者がいるというだけで隔離されて生きていかねばならないのか、と子供心に思った記憶がある。

それでも私は弟が大好きだった。弟の愛らしい笑顔は、全てを許してしまうほどの屈託のなさがあった。私が高校生になった今でもそれは変わらない。忙しい生活と、時間のなさに苛立っている私を見て、弟は一生懸命笑顔を作って元気づけようとしてくれる。私が時々眼鏡をかけていると、指を指しながら好奇心いっぱいの目をして近づいてくる。美味しい物を口に含むと、本当に幸せそうな顔をする。たとえ言葉は喋れなくても、喜怒哀楽を体全体で表現しようとする弟の姿に思わず微笑んでしまう。この瞬間、温かい気持ちが込み上げ、凍りついた心が溶けていく。いつも弟が私を助けてくれる。そして同時に自分の虚栄心が空しく感じられるのだ。追いたてられているだけの私よりも、無邪気な弟の方がずっと幸せだと思う。

しかし、現在では、かわいそうな障害児が生まれてくるのを事前に防ごうという「胎児診断」がある。何だかインフルエンザの予防接種のような発想である。胎児が障害をもっていたら堕胎という方法で殺してしまう場合もあるのだ。明らかに殺人である。「胎児診断」は、障害をもった胎児は生まれてくるべきでない、正常な胎児のみが生まれてくる価値があるという信念に基づいて行われているのだろうか。人間どうしでも異物排除を当然だと思っている。私には寄生虫駆除と同じ発想だとしか思えない。また、ノーベル賞受賞者などの優秀な人の遺伝子を受け継ごうという「精子バンク」がある。私も生まれつき頭がよかったら、と憧れることもあるが、努力をしなければ、宝の持ち腐れである。

生命が自由自在に操られている。心の中で「根本的におかしい」という気持ちが渦巻いていった。生命に優劣など存在するのだろうか。何を基準に、生命を増やしたり、排除したりしているのだろうか。

考え抜いた揚句、現代社会は、人間を産業資源としか見なしていないという結論にぶちあたった。優れた頭脳も、産業の発展に必要だから育成するという具合に・・・・。そうだとしたら、私たちが優秀な人間を目指し、走らされていることも、実際には現代社会に翻弄されているだけなのかもしれない。人間どうしでも「共生」はなされていないのだ。

本来「共生」という言葉の意味にでてくる異物とは、一般という枠からはみ出した物ではなく、一つ一つの生命全てが当てはまるように思う。そこには、優劣はなく、平等であるはずだ。お互いの存在を認め合い共に生きることが「共生」であると私は信じる。他人との競争に勝たなくても存在価値はあるのだ。勝ち続けなければ生きていけないかのような錯覚に陥っていたように思う。

将来、科学技術が更に発達し、生命操作が盛んになり、生命が商品化すらされてしまうかもしれない。人間が画一化され、単なる無表情な集団になってしまうかもしれない。実現してしまったらなんと愚かなことであろう。

しかし、もう客観的に眺めているだけの傍観者では済まないのだ。というのは、次の社会を築いていくのは私たちなのだから・・・・。

私は人をランク付けしたり、見下さず、誰とでも分け隔てなく接することができる大人になりたい。そのためには、体裁を繕うことや肩書きを得ることに心を奪われず、他人を思いやるゆとりを持つことが大切だ。

もしかすると、私の中の多様な面を「共生」させることがよい生き方なのかもしれない。私には短所があるが、それを直して完璧な人間を目指すよりも、短所をも認めてあげたい。競争に勝てない自分、他人に頼りたくても頼れない自分、本当は怠けたい自分を押し殺してしまわず、許してあげられる私でありたい。「共生」できる社会、そして自分を目指して。